Soravelのジャンクブログ

哲学科の大学生が素人発言します。

「自分語り」の話。

 「カオスに翻弄されて過度の重荷をしょいこまされたとき、たいていの人は、「単純素朴」にあこがれる。自分の人生を、「これが起きた後に、あれが起きた」という物語の糸に通して再生すれば、「おれは家の主人だ」と感じさせてくれる何かが、無意識のうちに生まれてきて、お腹にお日さまを当てたみたいに安心できるというわけだ。  トラウマブームになるずっと前から、たいていの人は、自分との関係において物語作者だった」(『ウィトゲンシュタイン精神分析』)

ぼくは何故か、友人から相談を受けることが多いみたいです。恋愛相談であれ、考え方の相談であれ、結果的に元気になってくれれば、それは嬉しいと思います。無粋な話かもしれないけど、人が何をどのように悩んでいるのか、個人的に興味もあります。

まあ、ぼくは精神科医でもないし、その辺の勉強は全くと言っていいほどしてないです。しかしながら、いろんな人の話を聞いていく中で、気づくことがあります。それは、人は往々にして物語を作りがちで、それが新たな問題を生みがちということです。

「自分語り」という言葉はよく耳にします。聞いてもいない「自分語り」をする人間は、ウザがられるらしいです。個人的には、ぼくはその人に興味があって、その人のことを知りたいと思って会話をしているのだから、もっと「自分語り」をしてくれと思ったりするんですけども。多かれ少なかれ、人は「自分語り」したいですしね。

でも、そういう「自分語り」が、本人を苦しめてしまうことも多いように思う。

「わたしはこういう経験をして、それが原因で、今こういう性格になって、こういう考え方をしてしまう」とか、もっと単純に「わたしは頭の回転が遅い」などなどの、自己言及的な発言を聞くことが結構あります。また、ぼく自身も、そういう発言をすることもあります。でも、ぼくはこういう発言に、何かしらの違和感を感じてしまうし、多分多くの人が感じていると思う。

「わたしは〜です」という表現には、必ず不完全性がつきまとうように思う。なぜなら、歴史が全てを記述することができないように、「わたし」について全てを述べることは不可能だから。だからこそ、物語にして単純にしてしまう。因果関係に基づき、論理的整合性のとれた物語に生きてしまう。フロイトは普遍的原理に基づいて物語を記述できると考えたんじゃないかな。だからこそ、無意識とかトラウマとか、エディプス・コンプレックスといった構造を作り上げたんだと思う。

ぼくはそういった、無意識とかトラウマを全く無意味とは言わない。治療に役立つことがあるのだろうし、それで助かった人もきっといるのだろう。また、トラウマによる精神疾患は、フィジカルな外傷として考えられ、フロイトの時代とはまた異なっている。

人はどうして「自分語り」の物語をするのかな。安心できるというのが、一つの理由かもしれない。安心というのは、それで元気になるとか、前向きになれるとかではなく、カオスに耐えられない人が、物語の単純さに安心するという意味です。ニーチェなら、物語は「力への意志」によってつくられると言うかもしれない(知らんけど)。確かに、その物語を通して、何かを他人に求めるというのはある。

こうしたことを踏まえても、やはり、そういった自己の物語は、カオスな自己の、一つのアスペクトに過ぎないのだと思う。ある絵が、老婆に見えたり、若い女の人に見えるとかあるけど、それと同じで、一つの見え方に過ぎない。一方で、カオスな自分をありのまま捉えることもできないとも思う。この辺はまだわからない。

ただ思うのは、一つのアスペクトに囚われるのは健康ではないとこと。「わたしは〜です」で言及される「わたし」は、〈わたし〉ではない。「わたしはトラウマに支配されている」というアスペクトに囚われると、そこから抜け出すのは困難になるんじゃない?(アドラーなら、人は進んでその物語に囚われるとか言いそう)精神医学の新宮一成の「自己が自己に論及することにつきまとう、尽きせぬ不完全性のめまいの中に、人間の病苦が発する」という発言には、やはり説得力がある。

結局、「わたしは〜です」という表現はあまり好きじゃない。

「「私とは・・・・・・だ」型のセンテンスよりも、「・・・・・・も私だ」型のセンテンスがおすすめで、健康によろしい」(『ウィトゲンシュタイン精神分析』) 

☆参考にしたのは

ジョン・M・ヒューストン『ウィトゲンシュタイン精神分析』土平紀子訳、岩波書店、2004年

の、主に、丘沢静也の解説です。