Soravelのジャンクブログ

きままに書きます

動的倫理としてのカポエイラ

1.カポエイラは分かりにくい

カポエイラは、その外見や歴史的背景から、おおむね「格闘技」に分類されることが多い。しかし、実際にカポエイラがどういう格闘技であるのかを明確に説明できる人は、それを一度も見たことがない未経験者はもちろん、ある程度経験を積んだ実践者であっても、そう多くはないように思う。

確かに、蹴りや受け、フェイントといった要素はある。だが、カポエイラには一般的な格闘技に見られるような勝敗の制度が基本的になく、またルールが明文化されていることも稀である。では、それはダンスなのか──と問えば、動きの美しさや音楽性は確かにあるが、ただのダンスとは言いがたい。要するに、分類が困難なのである。

だが、私はこの「分かりにくさ」こそが、カポエイラの本質に迫る重要な手がかりだと考えている。むしろ、カポエイラが明確な定義や固定された価値基準に回収されないからこそ、それは多様な実践や意味づけを可能にしているのではないか。そしてその性質は、私たちの倫理のあり方──とりわけ「動的な倫理」の在り様と深く関わっている。

本稿では、まずカポエイラの勝敗やルールの不在がいかに価値の多様性を可能にするかを確認し、次にその「分かりにくさ」が、共時的ではなく通時的な理解を要求することを示す。そのうえで、カポエイラを「動的倫理」の実践の場とみなす視点を展開し、さらにそれが現代的な教育のあり方とも接続しうることを論じたい。

 

2.明確なルールや勝敗の不在による倫理的特性

カポエイラが「分かりにくい」とされる理由のひとつに、明確なルールや勝敗が存在しないという点がある。たとえばボクシングであれば、点数を多く取った者、あるいはノックダウンを奪った者が勝者となる。そこには明文化されたルールがあり、何が禁止され、何が許されているかがはっきりしている。競技者それぞれにスタイルの違いはあるにせよ、「勝つ」ための目的と手段、ひいては“正解”が、第三者にも比較的分かりやすい形で共有されている。

一方で、カポエイラにはそのような明確な勝敗の判断基準が存在しない。ルールはあるが、それは明文化されたものというより、関係性や流れの中で読み取られる、暗黙的・文脈的なものだ。初めてカポエイラを目にする人は、「何をしているのか分からない」と感じるかもしれない。

ここで注目したいのは、「何をしているのか」そのものではなく、ルールや勝敗の不在が、何を可能にしているのかである。

ルールや勝敗が明確に定義されていないということは、裏を返せば、そこに絶対的な正解が与えられていないということでもある。つまり、プレイヤーの判断や、相手との関係性の中で何が「よい」動きかが都度決まっていく。この構造は、多様な価値観や身体性の保存・共存・創造を可能にする。

もし仮に、カポエイラに「相手をノックダウンすれば勝ち」というような明確な勝敗ルールを導入したとしよう。そうなれば、おそらくアクロバティックな美しさや、音楽との調和、流れるようなやりとりといった要素は、徐々に消えていくはずだ。さらに言えば、老若男女を問わず誰もが参加できるという柔軟さも損なわれてしまうだろう。明確な目的の規定化は、現在カポエイラが内包している多様な価値観の多くを切り捨てることを促してしまう。

逆に言えば、評価基準が固定されていないからこそ、たとえばスピードよりも音楽性を重視する人がいてもいいし、アクロバットよりも間合いや即興性、心理的な読み合いを重視する人がいてもいい。異なる価値観を持った者同士のゲームが、また新たな価値を生み出す。この構造は、倫理的な相対主義や、相互承認の空間と親和性が高い。

ただし、「ルールがない=無法」というわけではない。カポエイラには、長い歴史と文化的背景があり、そこには明文化されにくい形で共有されたマナーや節度、そして何より相手へのリスペクトが求められる。これらを踏まえたうえで言えば、カポエイラという空間は、その場その場で、異なる価値観の参加者同士が新たな秩序を即興的に構築する場であると言えるだろう。異なる価値観の共存を成立させる、この柔軟で動的な秩序こそ、カポエイラの創造性の源泉であり、倫理的実践としてのひとつの姿なのかもしれない。

 

3.共時的理解と通時的理解

カポエイラの「分かりにくさ」は、しばしば他の格闘技との比較の中で浮かび上がる。特に、ボクシングのようなルールが明確に定められた競技との対比は、その違いを理解するのに有効である。

たとえば、ボクシングを理解するためには、「共時的理解」が有効だ。共時的理解とは、ある瞬間の構造や制度、ルールを取り出し、その内部の関係性から全体を把握するような見方である。ボクシングは、ある一試合の中で何が起きているのか、どのような技術が有効とされるのか、どちらが優勢かを、その場の動きやルールに即して判断できる。ルールブックを読み、試合を見れば、比較的短時間でその意味や魅力が理解されやすい。

しかしカポエイラは、共時的理解だけでは捉えきれない。そもそもルールが明文化されておらず、勝敗も明示されない。外から見て「何が起きているのか」がすぐには分からない。そこで必要になるのが、「通時的理解」である。

通時的理解とは、ある物事を時間の流れの中で捉える視点である。カポエイラは、歴史的文脈や文化的背景、また一人のプレイヤーの身体史や、ゲーム(ホーダ)の積み重ねの中に意味が分散している。たとえば、あるジンガ(基本ステップ)がなぜそのように踏まれているのか、なぜそのタイミングで蹴りが出るのか──それは、その人がこれまでどういうトレーニングをし、どういうホーダを経験し、どういう価値観に触れてきたかによって変わってくる。

また、プレイヤー同士の関係性も、単に「今この場」で完結するのではなく、過去のゲームややりとり、あるいはその地域や団体における文化的コンテクストに深く関係している。つまり、カポエイラは「今この瞬間」だけでは完結しない。常に「これまでの時間」や「文脈の流れ」の中で意味が立ち現れてくるものなのである。

ボクシングが「共時的に完結する格闘技」であるとすれば、カポエイラは「通時的にしか理解されない身体言語」である。この違いが、カポエイラの「分かりにくさ」の本質を形づくっているのではないか。

 

4.通時的構造としての文化──カポエイラにおける文化保存と変容

カポエイラ共時的理解ではなく、通時的理解によって捉えられるべきものだという視点は、単にその「分かりにくさ」を説明するだけではない。むしろそれは、カポエイラが文化をどのように保存し、また変容させていくかという本質に深く関わっている。

文化の保存とは、単なる過去の形式や慣習を反復することではない。文化は、常に変化しつつも、何らかの持続性や記憶を保ち続けるという点で、「通時的な構造物」としての性格を持つ。カポエイラは、まさにそのような構造を内包している。

例えば、ホーダにおいて繰り返される楽器、歌、動き、呼応、振る舞いには、それぞれに歴史的な背景と意味がある。ある曲が歌われるとき、それは単にその場の演出としてではなく、かつての歴史的な記憶や、団体内の人間関係、地域文化の歴史などが背景として流れ込んでいる。そうした意味は、ルールブック的に外から読み取ることはできない。身体的な経験と文脈の積み重ね=通時的理解を通じて初めて立ち現れるものである。

さらに、勝敗やルールといった固定された評価軸が存在しないことによって、そうした文化的要素は比較的柔軟に保存される。もし特定の技術だけが「正」とされ、他が排除されていけば、文化は淘汰されるだろう。だが、カポエイラの開かれた構造は、異なる価値観や伝統が共存できる余白を残している。これは、文化を「生きたもの」として扱う姿勢そのものである。

しかもそれは保存にとどまらず、常に変容と創造を伴っている。個々のプレイヤーが、それぞれの文脈・身体・経験から価値観を持ち寄り、交差させることで、文化は動的に再構成され続けている。そして、こうした動的文化は、共時的な評価制度では測れない。通時的に──時間と経験を通じて──理解され、再生産される。

このようにしてカポエイラは、「伝統」と「創造」という一見相反する力を、勝敗やルールの不在によって両立させる。これは、形式を固定することで文化を保存するのではなく、形式の「ずれ」や「曖昧さ」を許容することで、より多層的な文化の記憶と創造を可能にしている。

 

5.即興と動的倫理:ルール不在が要請する倫理的判断

カポエイラの技は常に即興的であり、「いま・ここ」の応答の連鎖で成立する。しかしながら、先に述べた通り、自由放任ではなく、相手の意図や状況を読む責任を伴う。この責任は、外在的に規定されたものではなく、相手との関係性や、その場の雰囲気を踏まえた、動的に発生する倫理である。すなわち、「やっていいこと」と「すべきでないこと」は、文脈の中で感知される。

現代社会では、明確なルールと評価軸を求める傾向が強い。曖昧さは強いて排除される。しかしながら、実際の生活における倫理的実践は、法律のように明文化され固定化されたものに従うのではなく、「関係性に委ねられた曖昧さ」の中での立ち振る舞いを求められる。カポエイラは、こうした不確定な状況でも他者と関わり続ける倫理的能力を育む実践の場である。

 

6.教育としてのカポエイラ──倫理的能力と自己相対化の場

これまで述べてきたように、カポエイラは明文化されたルールや勝敗によって成立しているのではなく、各プレイヤーの相互的な即興と応答の中で、その都度秩序や倫理が立ち上がる「動的な場」である。これはまさに、現実の人間関係や社会生活の中で求められる倫理的能力と重なる。

現代の教育においては、「決まった答えを導き出す力」が重視される傾向が強く、評価基準が外在的に定められ、それに従うことが合理的とされる。だが、実際の社会や対人関係においては、曖昧で、文脈に依存した応答力=倫理的な判断力が求められる。カポエイラはまさに、そのような能力を、身体を通じて体験的に育む場となりうる。

この教育的価値は、子供に限らず、大人にとっても重要である。現代資本主義社会では、効率性、合理性、目標達成、評価の透明性といった価値が重視され、あらゆる行為が数値化され、競争的に位置づけられる。このような社会構造の中では、私たちは知らず知らずのうちに、評価されることを前提とした振る舞いに慣らされ、「何のために動くのか」「どう動くのがよいのか」を外在化された基準に委ねがちである。

カポエイラは、そうした外的基準への従属から、一度立ち止まり、自分自身を相対化する契機を与えてくれる。明確なルールも、評価も、勝敗もない空間の中で、「どう動くか」は自分と他者との関係性、音楽、身体の流れの中で即興的に問い直される。つまり、そこには「こうあるべき」という基準が外から与えられないがゆえに、「どうありたいか」を主体的に問わざるを得ない。

この構造は、大人にとって非常に貴重である。日常生活においては、自己表現も自己判断も、しばしば制度や職務の文脈に従属しており、「本来の自分」が沈黙を強いられることがある。カポエイラは、そうした文脈から一歩離れ、「いま・ここ」に応じた即興的な判断や表現を可能にする空間を提供する。合理性や評価可能性から逃れ、他者とともに即興的に動く中で、自らを再発見する空間として、カポエイラは大人にとっても「教育的」である。

したがってカポエイラは、単なる格闘技でも、舞踊でも、文化遺産でもなく、動的倫理の実践の場であり、子供から大人まで、現代社会の枠組みを越えて生きるための訓練の場である。

なぜ地球は平面なのか

あけましておめでとうございます。

今年ものんびり書いていければなと思っています。

(今年はもうちょっと書きたい。。。)

 

今回はタイトルの通り。。とは少し違う。別に地球平面説を提唱したいわけではない。

 

私と直接的な付き合いのある人は、「地球は平面や!」とか、「地球が中心で太陽がまわっとるんや!」と私が冗談で言うのを聞いたことがある人もいるでしょう。私はちょくちょくそういうことを言う。これは半分冗談ですが、半分本気です。その半分本気の部分を説明したいと思う。

 

結論から言うと、枠組みの中や理論、定説の中で生きていることを自覚せよ、という話ですが。。。

 

■失われたりんご

まずは、地球ではなく、りんごという小さなものから話しましょう。

 

皆さんは初めて算数をならった時期を覚えているでしょうか。初めは1、2といった数を学ぶでしょう。その際、具体的な事物をもとに学んだはず。りんごはいくつありますか?たけし君はアメを何個持っていますか?

 

私は塾講師をやっていたのでわかりますが、10より大きな数を学ぶ際に躓く子は少なくない。なぜならそこに抽象度の飛躍があるから。

 

人間の手にはたいてい指が10本あるので、10までの数は具体的なイメージをもって理解できます。しかしながら、それ以上の数になると、具体的にイメージすることがとたんに難しくなります。10000個のりんごを想像できますか?それでも私たちは、10000個のりんごを計算上扱うことができる。そういうことができるのは、具体的なイメージを必要としなくなったから。具体的なりんごを捨て去って、ひとつ抽象度を上げた自然数といいう概念を学んだからです。

 

1という概念と、1000という概念では、理解の抽象度が違う。前者はりんごで理解できるが、後者はりんごでは理解できない。こうやって抽象度を上げていき、また1をとらえなおす。りんごを使わずとも、みなさんは1という数字を使いこなすはず。。。

 

抽象度を上げることで、りんごは失われました。

 

■コーヒーの妖精

次はコーヒーの話。

 

コーヒーを飲むと眠れなくなるのは、コーヒーの妖精が眠気を消してくれるからです。

 

と言うと、みなさん怪訝な顔をして、「いやカフェインが作用するからだ」と言います。

 

しかしながら、この記事を読んでくださっているみなさんのうち、どれほどの人がその仕組みをご存じなのか。(カフェインはC8H10N4O2の化学式であらわされる有機化合物で、GABAの遊離を抑え、眠気を抑制する。。らしい)

 

みなさんがカフェインカフェイン言うとき、それにコーヒーの妖精とどれほどの情報量の違いがあるのか。

 

それでもわれわれはカフェインが眠気を抑制するのだと、妖精よりもカフェインのほうが正しいだろうと思う。その理由は別にまた考察したいところだけど、ともかく、カフェイン論を素朴に受け入れて生きている。

 

わたしたちは、具体性も根拠も知らずとも、どこかで手に入れたある種の理論の枠組みで、世界を捉えて生きている。

 

■地球はなぜ平面なのか

りんごやコーヒーの話から、私が何を言いたいのか、なんとなく察して頂けただだろうか。

 

宇宙にでも行かない限り、この大地は直観的には平面である。一方、なにかしらの理屈や理論によって、この大地は丸いのだと科学的に証明されている。この大地は丸いと、わたしたちは素朴に信じている。そういう枠組みで生きている。

 

だが、前者と後者では、理解の仕方が全く違う。子供が初めに1~10を理解する仕方と、1000や10000の概念を理解する仕方が異なるように、そこには抽象度の違い、理屈の有無の違いがある。大地が丸いというのは、理屈の先の枠組みである。そしてカフェインの話ように、理屈をすっ飛ばしてでも、大地は丸いという世界観で私たちは生きている。

 

しかしどう見ても大地は平面なのだ。われわれの小さな視野のなかでは。

 

直観と理論、それらが二重に重なり合った状態で、わたしたちは生きている。それを自覚しないでいいのか?という意味をこめて、「地球は平面や!」と私は言うのだ。

 

このことを自覚しないから、われわれは理屈に惑わされる。友情、愛情、性格、など、所詮言葉上の理屈でしかないものに振り回される。

 

もちろんそれらが無意味だと言っているわけではない。だが、最近流行りのMBTI診断などは、エンタメでこそおもしろいが、性格分類をあたかも客観的事実のように用いて、直観を捻じ曲げているのではないか。そもそも性格など実在しない。

 

地球が丸いからといって、家から駅までのまっすぐな道を曲線で描くのは馬鹿げている。だが、それと同じようなことを平気でするのがわたしたちである。

 

地球が丸いというのは、所詮われわれには理屈の先の事実である。それは変化しうる。何もこれから地球が丸いという説が覆されるかも、と言いたいわけではない。だが所詮世界観としての枠組みである。それを理解しないなら、球体説や地動説を社会的に抹殺した時代からなんの進歩もしていない。

(地動説と天動説に関しても、ニュートンの絶対空間が物理学から排除された今、素朴に前者を支持することは、100年以上前の知識で止まっているように感じる。両者は系の取り方の違いに過ぎない)

 

大人になって理屈で考えるようになった今、りんごで数を理解したあの頃を、たまには思い出して欲しい。持っている理屈や理論は一度置いておいて、もっと自分の直観を思い出して欲しい。

 

目の前のりんごが丸いと理解するのと、地球が丸いと理解するのは、まったく違うことなのだ。

 

 

ゴーストの囁きを聴け

 先日、私の大好きな声優が亡くなられました。田中敦子さんです。彼女の、力強くもどこか脆さや弱さ、はかなさが感じられるような声が大好きでした。ご冥福をお祈りしたい。

 

 田中敦子さんといえば、「攻殻機動隊」の草薙素子少佐、「ニーア・レプリカント」のカイネが印象的です(最近では「呪術回線」の花御かな)。

 

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【ニーア レプリカント ver.1.22…】PS3版からアップグレードしすぎなアトラクトムービー公開 | ゲームブリッジブログ

 

 田中敦子さんの声として最も印象に残るのは何かといわれると、私にとってはやはり、攻殻機動隊シリーズの草薙素子少佐の決め台詞、

 

「根拠ですって? そう囁くのよ、私のゴーストが」(押井守GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」)

 

「そうしろって囁くのよ、私の、ゴーストが」(神山健司「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」 第5話 マネキドリは謡う DECOY)

 

など、作中で必ず用いられる「ゴーストの囁き」です。田中敦子さんの声で響いたこの「ゴーストの囁き」を、今回はテーマにしたい。

 

■「攻殻機動隊

 まずは簡単に「攻殻機動隊」シリーズの説明から入ります。

 

 「企業のネットが星を被い 電子や光が駆け巡っても 国家や民族が消えてなくなるほど情報化されていない近未来―」と「GHOST IN THE SHELL」の冒頭であるように、ネットが普及し、また身体の機械化(「義体化」)はもちろんのこと、脳みその「電脳化」までもが当たり前となった近未来社会が舞台です。そこで発生する様々な事件を、少佐率いる公安9課が解決するサイバーパンクもの。というのが、まあおおまかな説明です。

 

 原作は、士郎正宗の漫画『攻殻機動隊』であり、それをもとに、押井守、神山健司、黄瀬和哉が映像化しています。要するに4種類ある。それぞれのテイストが全く異なり、それぞれ面白いのですが、今回は田中敦子さんが声優を務める押井守作品、神山健司作品についてのみ触れます。

 

■ゴースト

 では、少佐に囁くゴーストとはなにか。簡単に換言すると、機械やAIには宿らず、人間のみに宿る「魂」や「精神」のようなものです(動物については触れられていなかったと思う)。作中で「ゴーストが確認される」というような発言、ゴーストダビングといった技術があることから、ゴーストはスピリチュアルなものでは決してなく、ある種の実体であると考えられます(原作で注釈があった気がするが、残念ながら今手元にない)。

 

 このゴーストの存在によって、「攻殻機動隊」の世界は、完全に人間機械論的ではないが、人間と機械の境目があやふやな世界観を呈しています。実際作中で、機械にゴーストが宿ってもおかしくないという旨の発言、あるいは実際にゴーストが宿ったかもしれない描写があります。

 

■それぞれの少佐

 ◇「SAC」の少佐

 さて、一口に草薙素子(以下「少佐」)といっても、神山健司監督の「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」シリーズ(以下「SAC」)と、押井守監督の「GHOST IN THE SHELL」(以下「GHOST」)では、そのキャラクター性はかなり異なります。 それに伴い、当然ながら「囁くのよ、私のゴーストが」の意味、位置づけが変わるように思われます。

 

 「SAC」の少佐は全体を通して力強く、メンバーを引っ張っていく優秀なゴリラ少佐です。優秀な戦略家であり、肉弾戦、電脳戦にも優れている。状況に即座に対応し、メンバーに即座に指示を出します。さらに教養もあり、余裕のある大人の女性って感じ。田中敦子さんの力強く説得力のある声も相まって正直惚れます。大好き。

爆上ハードボイルドでガッチャーンコ! : 草薙素子よ永遠に

 

 ◇「GHOST」の少佐

 一方、「GHOST」の少佐は、そこまで力強さを感じません。もちろん優秀な公安であることは間違いないのですが、慢性的なアイデンティティクライシスに陥っています。全体を通して自分の存在に対する疑念があり、自分のゴーストに確信が持てていないように感じます。以下、少佐とバトーの会話、

 

「私みたいに完全に義体化したサイボーグなら、だれでも考えるわ。もしかしたら自分はとっくの昔に死んじゃってて、今の自分は電脳と義体で構成された模擬人格なんじゃないか、いやそもそも初めから私なんてものは存在しなかったんじゃないかって」

「お前のチタンの頭蓋骨の中には、脳みそもあるし、ちゃあんと人間扱いだってされてるじゃねえか」

「自分の脳を見た人間なんていやしないわ。所詮は周囲の状況で、私らしきものがあると判断してるだけよ」

「自分のゴーストが信じられないのか?」

「もし電脳それ自体がゴーストを産み出し、魂を宿すとしたら、そのときは、何を根拠に自分を信じるべきだと思う?」

 

攻殻機動隊」の世界では、電脳化により、記憶の書き換え、認識の改ざんが可能であり、デカルト懐疑論のようにすべてを疑うことが容易です。身体も、記憶も、認識も全て置換可能。その上もし機械がゴーストを産み出すとしたら、自己の同一性を担保することは不可能なのではないか。デカルトは「われ思うゆえにわれあり」と述べました。しかし、それは考える主体が「ある」と教えてはくれるも、「私」とは何かを教えてくれるわけでも、自己同一性を担保するわけではありません。作中では、ネットで産まれた生命体であると自称する「人形遣い」との出会いを通して、少佐のこの疑念はさらに加速していきます。

Ghost in the Shell Fans Are Already Divided By Netflix's 3D Anime SAC_2045

 

 この二人の少佐、同じ田中敦子さんが声優を担当されているのですが、まったく声が違うので、是非聴き比べて欲しいです。

 

■それぞれの「そう囁くのよ、私のゴーストが」

 ようやく本題。「そう囁くのよ、私のゴーストが」発言について話したい。

 

 この言葉は、根拠のない状況で少佐が物事を判断するときによく使います。

 

「課長の推理当たってると思うけど、どうしても一つだけピースがはまってない気がするの、そのために警視総監に張り付く、そうしろって囁くのよ、私の、ゴーストが」(神山健司「攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX」 第5話 マネキドリは謡う DECOY)

 

「考えすぎなんじゃない?今のとこ、何の根拠もないし」

根拠ですって? そう囁くのよ、私のゴーストが」

押井守GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」)

 

「白のセダンはこっちでつけるわ」

「そっちが本命だって根拠は? 例のゴーストの囁きか?」

「そうかもね」

「だと思ったぜ」

押井守GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊」)

 

 これらの発言はどのように解釈されるでしょうか。やはりよく見かける解釈は、少佐の直観です。いわゆる「デカの勘」に近いものだと思います。この解釈はほとんど同意します。しかしながら、もう少しだけ深堀したい。注目したいのは、「ゴーストが」の部分。わざわざ「ゴーストが」と言うところが肝要です。

 

 ゴーストは、先ほども述べたように、基本的には人間にしか宿りません。つまり、機械と人間を区別する最後の砦でもあります。これを踏まえて、「SAC」と「GHOST」、それぞれで解釈したい。

 

 ◇「SAC」の少佐

 「SAC」の少佐は、「そうしろって囁くのよ、私のゴーストが」と自信満々に言う。実際その直観にはなんの根拠もないのに。ここでは、自分のゴーストに対する、少佐の絶対に近い信頼があります。この、なんの根拠もない信頼が重要。

 

 根拠のある判断とは、基本的には合理的で確率の高いことを意味します。少佐もおおよそ合理的な判断を下します。しかし、合理的な判断は機械でもできます。むしろ機械のほうが人間よりよっぽど合理的です。だからこそ逆に、根拠のない判断は人間にしかできない。このことから、ゴーストへの根拠のない信頼は、全身サイボーグで最も人から遠く機械に近い少佐が、作中で最も人間であると浮き彫りになる表現なのです。

 

 「ゴーストの囁き」は確かに少佐の直観でしかないかもしれません。しかし、根拠のないものに根拠を捏造しない。これが「SAC」の少佐のすがすがしさであり、最も説得力のある人間性なのです。

 

 ◇「GHOST」の少佐

 一方、「GHOST」の少佐の「そう囁くのよ、私のゴーストが」発言はどうでしょう。

 

 「GHOST」の少佐も、根拠のない判断をする際にこの発言をしています。しかし、「SAC」の少佐とは違い、「GHOST」の少佐は、自分のゴーストを疑い、アイデンティティクライシスに陥っており、自分のゴーストをさらに基礎づけようとしています。語りえぬものを語ろうとして、ゴールのない迷路に迷い込んでしまっているかのようです。こんな少佐が、根拠もなく「ゴーストの囁き」を信じ切るわけがありません。私が思うに、少佐のこの発言は、自分のゴーストを信用しきれていないことの現れです。

 

 「GHOST」の少佐がアイデンティティクライシスに抗するにはどうすればいいのでしょうか。身体もだめ、記憶もだめ、認識もだめ、信用できなくなっているとはいえ、最後の砦はやはり自身のゴーストです。少佐はもう自身のゴーストにすがるしかない、それを信用するにはどうしたらいいのか。ゴーストの確かさを証明するしかない。

 

 どうすればいいのでしょうか。少佐のとった方法は、まず「ゴーストの囁き」を正しいと仮定する。それに従った結果が正しければ、「ゴーストの囁き」、つまり自身のゴーストも確か信用にたる存在に違いないという方策、一種の賭けです。仮説演繹法に近い。

 

 考えすぎでしょうか。しかし私にはそう感じられた。そう考えないと、少佐が「ゴーストの囁き」を信じる(信じたことにする)理由がない。「GHOST」の少佐は、自身のゴーストを確かめたくてしかたない。だから、自身のゴーストの直感を信じたことしに、賭けにでる。「そう囁くのよ、私のゴーストが」とそれを宣言する。このようにして、自身のアイデンティティを確保しようと努める、なんとも危うい手法です。

 

 しかしながら、そのような手法で騙し騙し生きてもいられない。だからこそ、最後の少佐の選択がある。「SAC」の少佐なら、多分あの選択はしていない。

 

■おわりに

 田中敦子さんの話から、ほとんど「攻殻機動隊」の考察になってしまった感がある。しかし、自分の中での田中敦子さんといえば、「そう囁くのよ、私のゴーストが」なのです。私たちのような有限的存在は、どこまでいっても最後には不確定の中での選択がある。全てを考慮して合理的で正しい選択など不可能だ。そんな中信じられるのは何か。信じてみよ、ゴーストの囁きを。 

 

卒業ライブを終えて

先日、所属しているサークルの卒業ライブが終わった。まだ大学にはいるので、またライブに出るかもしれないけど、一つの節目ということで、ここに少し書こうと思う。

僕は小学校の時からギターを持ってはいたけど、家にあるだけでまったく触っていなかった。だから大学になって初めて軽音というコミュニティに所属することになった。

最初の一年間は正直全然つまらなかった。まず弾けないし、わかんないし。何をどう練習すればいいのかも、どれくらい練習したらライブでしっかり演奏できるのか、まったくわかんなかった。ライブもつまんないから、練習しない、練習しないから、ライブもつまんない、加えて同期とも全然仲良くなれない。だから一年生でやめようと思っていた。

その年、サークルのギター不足のせいもあり、学園祭のステージのオーディションバンドに誘われた。コピーしたのはナンバーガールというバンド。まったく知らないバンドだったが、なぜか承諾した。でもこれが一つのきっかけになったんだと思う。

オーディションということもあり、自分なりに頑張って練習した。曲は、「透明少女」「鉄風 鋭くなって」「Omoide In My Head」。これがすごく楽しかった。初めてバンドって楽しいなって思った。

当たり前だけど、楽しかったのは、練習したからだ。練習しないと楽しくない。音楽に限らず、何かを楽しもうと思ったらそれなりの訓練がいる。そんな当たり前の事実を経験した。

それからcoldrain、そしてCrossfaithのコピバンを組んだ。これがラウドやメタルにハマるきっかけになった。これがなかったら、サークル辞めてただろうな。その時期から他のバンドでもライブがどんどん楽しくなった。

それでも、当然しんどい時間も長かった。練習自体もそうだけど、周りが上手な人ばっかりで、自分が足を引っ張るんじゃないかって不安がずっとあった。これは最後のスタジオまでずっとあった。吐きそうになりながらスタジオに行ってた。実際に足を引っ張った時も少なくない。それでもバンドを組んでくれて優しくしてくれたみんなには感謝しかない。ありがとう。

サークルでずっと気になっていたのは、一年生のぼくと同じで、ライブをまだ楽しめてない人がいるんじゃないかってこと。初心者で始めたばかりだからかもしれないし、仲良くもできないからかもしれない。でも、しんどくても是非続けてほしい。多分辛い時間も長いけど、ライブが楽しくなる瞬間がいつか来ると思う。そして、今すでにライブを楽しめている人たちは、まだライブをまだ楽しめてない人に、楽しさを伝えてほしい。伝え方はなんでもいい。練習に付き合うのもいいし、知識を伝えるのでも、ライブで伝えるのでも。

偉そうなことかもしれないけど、後輩たちは、何か一つの目標を見つけてほしい。サークル活動を続けているうちに、ぼくは一つの目標を見つけた。ぼくよりギターが上手いやつはたくさんいる。だから、一番かっこよく演奏できる人になろうと思った。だからステージングにはすごく拘った。ライブ中の動きはを動画で見直して、家で頭振る練習とかしてた(親に心配された)。そして、やっぱりかっこよく弾けるようになるには、上手くならなきゃいけない。一つの目標に付随して、わずかながらだけど、この四年間で上手くなったと思う。

そして卒業ライブ、最高に楽しくて、気持ちよかった。

でも、やっぱり、動画を見直すと反省点もたくさん見つかる。悔しいのでまだまだ上手くなりたいし、ライブしたいなと思った。ギターのローンもあと3年くらいあるし、まだ音楽を続けたいな。

みんなありがとう。ぼくは、どこぞの上手い人の演奏なんかより、サークルのみんなのライブが好きでした。楽しかったです。 たとえ時間がたって忘れてしまうことも多くなっても、この四年間が、これからのぼくの一部としてずっとあり続けます。

Omoide In My Head

コーヒーと豚と白痴

はじめに断っておきますが、ここで倫理とか道徳、社会を良くしよう! とか言いたいわけじゃないです。ぼくは哲学科だけど、割と倫理とかどうでもいいと思ってる節がある。あと、「なにが言いたかったのか?」という現代文みたいな読み方をされると困る。結論はない。それでもいいという方は読んでくれると、少し嬉しい。

ぼくはコーヒーを毎日飲む。家でも飲むし、喫茶店でも飲む。コーヒーが好きだからだし、起きてからコーヒーを飲まないと、一日が始まらないと本気で思っている。美味しいと思うこともあれば、不味いと文句も言う。コーヒーはぼくのQOL(笑)を支えてくれている。

コーヒーはぼくをハッピーにするわけだけど、しかし一方で、飲むたびに頭によぎることがある。コーヒー豆の農家のことです。

コーヒー豆の生産は、ブラジルやらベトナム、コロンビア、インドネシアエチオピア、この五カ国で大体半分くらいです。そこで生産支えている農家のうち、今でも少なくない人がアホみたいな低賃金で働かされている(あえて「されている」という表現を使うね)。彼らは、靴も履けないし、水も食料も十分じゃない。教育も満足に受けれていないし、学校すらない地域もある。

現在コーヒー市場を支配している多国籍企業は、クラフトフーズ社、ネスレ社、P&G社、サラ・リー社。バイヤーたちは、NY市場の状況に応じて、コーヒー豆の値段を決める(生産者ではない!)。農家は、どれほど安い値段を言われても、売るしかない現状です(もちろんそういった事態をどうにかしようとする人々もいる)。

企業の代表たちは自分で作ったわけでもない低価格で買った高品質なコーヒー豆を誇り、農家はいつまでも無知で貧乏で、味のわからないアホなJKがスターバックスでフラペチーノを飲み、ぼくは飲み残した不味いコーヒーを台所に捨てる。

コーヒーだけではない、ぼくたちはそういったグロテスクな文脈の中で生きている。それは少し想像力を働かせればわかることです。グローバルな世の中では、それは無関係なことでは決してない。ぼくの手元にはコーヒーがある。

このような文脈は、コーヒーを通して線のように世界とぼくたちを繋げているのではありません。隠世が常世にピッタリとくっついているように、そこにある。そう思ったのは、ある映像を見たから。

最近、屠殺場の動画をいくつか見たのですが、その中に、死んだ豚をシュレッダーにかける動画があった。えらい音を立てて豚がバラバラになるわけだけど、四肢のある豚が、ほんの数秒のうちに、スーパーで並んでいる切り身になってしまった。ぼくたちは普段豚がどうやって殺されるか考えずに豚丼を食うわけだけど、普段考えない見たくもないグロテスクな文脈は、ほんの数秒という身近さでそこにある。(シュレッダーを使うのは、ほんの少しの人たちで、倫理的に問題があるとして、さらに少なくなっているみたい)

それを実感したぼくは、しばらくの間、コーヒーを飲むたびに農家の肌にたかるハエがそこにいるような感覚に陥った(次の日には平気で飲むわけだけど)。

で、最初にも言ったように、ぼくはなにも、このような現状を知って農家や動物に感謝しようとか、社会をよくしようとか、人間のかくあるべき倫理を言いたいわけではない。そんなことは、他の人がたくさん言っている。

ようは、選択や決断の問題だと思う。

コーヒー農家の現状を知ったとき、ぼくたちは選択しなければならないという切迫感に襲われる。もし、そうでないのなら、それは想像力がないか、まだよく知らないか、コーヒー農家のことをその辺の虫けらと同じように思ってるかのどれかじゃないか。

では、選択するとは、何を選択するのか。生き方じゃないかな。

現状を変えようと活動する、ボランティアに参加する、あるいは、搾取上等で農家を踏み潰して生きていく、全く知らないふりをする、など。

人がどういった選択をするべきか、などはここでは関心しない。ただ、選択をしない、選択をしたことに自覚がない、そんなことでいいのか。

全く論理的じゃないけど、ものごとを知るとは選択を迫られることだと思う。選択をすることは生きることだと思う。

でも、選択したくないから、一生無知でいるのもいいと思う。というか、ぼくはむしろ無知でいたい。

最後に、ぼくの好きなセリフを『虐殺器官』から引用して終わりです。読んでくれてありがとう。

「人々は見たいものしか見ない。世界がどういう悲惨に覆われているか、気にもしない。見れば自分が無力感に襲われるだけだし、あるいは本当に無力な人間が、自分は無力だと居直って怠惰の言い訳をするだけだ。だが、それでもそこはわたしが育った世界だ。スターバックスに行き、アマゾンで買い物をし、見たいものだけを見て暮らす。わたしはそんな堕落した世界を愛しているし、そこに生きる人々を大切に思う。文明は……良心は、もろく、壊れやすいものだ。文明は概してより他者の幸せを願う方向に進んでいるが、まだじゅうぶんじゃない。本気で、世界中の悲惨さをなくそうと決意するほどには」

乳の話

貧乳好きって、なんか違うよねって話です。

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最近ではあんまり聞きませんが、「貧乳は正義」って言葉がありました。巨乳派と貧乳派の争いは、今でも続いてるんですかね?まあ僕はどっちもそれはそれで好きなんですけど、それぞれに対する「好き」って対等じゃないと思うんですよね。

巨乳と貧乳の対立は安易で、美乳がどうのこうの言い出す勢もいるんですけど、美乳うんぬんって脱いだ後の話ですよね、なので今回はスルーで。

話戻します。

なんていうか、超ありきたりに言うと、巨乳好きなのは本能で、貧乳好きはその本能に対する逆張りでしかないって感じですかね。ぼくなんか、巨乳には自然に目が行っちゃうけど、貧乳には行かない。巨乳と貧乳に対する「好き」の意味合いが違うんですよね。まあ、超個人的な感覚だから、みんながみんながそうとは言えませんけど、巨乳好きが根本にあって、貧乳好きは、そのアンチテーゼみたいな。

Aっていうテーゼが定立されると、同時にnot Aも定立されるように、貧乳好きは、巨乳好きへのアンチテーゼみたいなもんじゃないかと。(「私は巨乳好き」の否定は、「私は巨乳好きではない」なので、それから直ちに「私は貧乳好き」は帰結されないんですけど、あくまでも感覚的な表現です。それに乳はみんな好きなので、多分誤謬ではない。

前提 「人間は巨乳好き」∨「人間は貧乳好き」(←反論は認めない) 「私は人間である」 この前提を正しいものとすれば、not「私は巨乳好き」と「私は貧乳好き」は同値です(テキトーです))

この比喩には無理があるのでやめて、違う表現しますね。

多分巨乳と貧乳って、それ自体が好きというより、それぞれがメタファーなんですよ、多分。

例えば、巨乳は、母性とかそういうもののメタファーで、一方貧乳は、若さのメタファーである。こんな感じすかね。例えばですよ?だから、同じ乳の話をしてるようで、意味してるものが全然違う。ただ、こういう解釈だと、巨乳好きの方が真正、根本的っていう最初の主張が帰結されないんですけどね。

でも、こういう話をいろんな視点で分析すると楽しそうです。

どうでもいい話でした。

「自分語り」の話。

 「カオスに翻弄されて過度の重荷をしょいこまされたとき、たいていの人は、「単純素朴」にあこがれる。自分の人生を、「これが起きた後に、あれが起きた」という物語の糸に通して再生すれば、「おれは家の主人だ」と感じさせてくれる何かが、無意識のうちに生まれてきて、お腹にお日さまを当てたみたいに安心できるというわけだ。  トラウマブームになるずっと前から、たいていの人は、自分との関係において物語作者だった」(『ウィトゲンシュタイン精神分析』)

ぼくは何故か、友人から相談を受けることが多いみたいです。恋愛相談であれ、考え方の相談であれ、結果的に元気になってくれれば、それは嬉しいと思います。無粋な話かもしれないけど、人が何をどのように悩んでいるのか、個人的に興味もあります。

まあ、ぼくは精神科医でもないし、その辺の勉強は全くと言っていいほどしてないです。しかしながら、いろんな人の話を聞いていく中で、気づくことがあります。それは、人は往々にして物語を作りがちで、それが新たな問題を生みがちということです。

「自分語り」という言葉はよく耳にします。聞いてもいない「自分語り」をする人間は、ウザがられるらしいです。個人的には、ぼくはその人に興味があって、その人のことを知りたいと思って会話をしているのだから、もっと「自分語り」をしてくれと思ったりするんですけども。多かれ少なかれ、人は「自分語り」したいですしね。

でも、そういう「自分語り」が、本人を苦しめてしまうことも多いように思う。

「わたしはこういう経験をして、それが原因で、今こういう性格になって、こういう考え方をしてしまう」とか、もっと単純に「わたしは頭の回転が遅い」などなどの、自己言及的な発言を聞くことが結構あります。また、ぼく自身も、そういう発言をすることもあります。でも、ぼくはこういう発言に、何かしらの違和感を感じてしまうし、多分多くの人が感じていると思う。

「わたしは〜です」という表現には、必ず不完全性がつきまとうように思う。なぜなら、歴史が全てを記述することができないように、「わたし」について全てを述べることは不可能だから。だからこそ、物語にして単純にしてしまう。因果関係に基づき、論理的整合性のとれた物語に生きてしまう。フロイトは普遍的原理に基づいて物語を記述できると考えたんじゃないかな。だからこそ、無意識とかトラウマとか、エディプス・コンプレックスといった構造を作り上げたんだと思う。

ぼくはそういった、無意識とかトラウマを全く無意味とは言わない。治療に役立つことがあるのだろうし、それで助かった人もきっといるのだろう。また、トラウマによる精神疾患は、フィジカルな外傷として考えられ、フロイトの時代とはまた異なっている。

人はどうして「自分語り」の物語をするのかな。安心できるというのが、一つの理由かもしれない。安心というのは、それで元気になるとか、前向きになれるとかではなく、カオスに耐えられない人が、物語の単純さに安心するという意味です。ニーチェなら、物語は「力への意志」によってつくられると言うかもしれない(知らんけど)。確かに、その物語を通して、何かを他人に求めるというのはある。

こうしたことを踏まえても、やはり、そういった自己の物語は、カオスな自己の、一つのアスペクトに過ぎないのだと思う。ある絵が、老婆に見えたり、若い女の人に見えるとかあるけど、それと同じで、一つの見え方に過ぎない。一方で、カオスな自分をありのまま捉えることもできないとも思う。この辺はまだわからない。

ただ思うのは、一つのアスペクトに囚われるのは健康ではないとこと。「わたしは〜です」で言及される「わたし」は、〈わたし〉ではない。「わたしはトラウマに支配されている」というアスペクトに囚われると、そこから抜け出すのは困難になるんじゃない?(アドラーなら、人は進んでその物語に囚われるとか言いそう)精神医学の新宮一成の「自己が自己に論及することにつきまとう、尽きせぬ不完全性のめまいの中に、人間の病苦が発する」という発言には、やはり説得力がある。

結局、「わたしは〜です」という表現はあまり好きじゃない。

「「私とは・・・・・・だ」型のセンテンスよりも、「・・・・・・も私だ」型のセンテンスがおすすめで、健康によろしい」(『ウィトゲンシュタイン精神分析』) 

☆参考にしたのは

ジョン・M・ヒューストン『ウィトゲンシュタイン精神分析』土平紀子訳、岩波書店、2004年

の、主に、丘沢静也の解説です。