Soravelのジャンクブログ

哲学科の大学生が素人発言します。

繁華街で吐きそうになった話。

今回は、繁華街で飲み過ぎて吐きそうになった話、、、、ではありません。

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先日の夜、近くの繁華街に赴く用事がありました。遊びに行くわけでもなく、本当に少し人と会っただけで、今回の内容には全く関係ないです。

で、その人との待ち合わせまで暇だったので、散歩がてらその繁華街を一人で歩いていたのですが、その街の雰囲気それだけで吐きそうになってしました。

夜の繁華街には特有の雰囲気があって、色んな人の「思惑」が電波のように飛び交っている。飲み歩く男女や、キャッチやナンパなど、主に男女関係の思惑が多いんですけど、さまざまな意図を持って人が歩いているのが伺えます。

元気なときはその雰囲気が気持ちよくて、その流れに身を置けるのですが、最近は本当に疲れているようで、その雰囲気にあてられてしまいました。

会話っていうのはいつも逐語的ではなく、何かしらの意図が含まれていることが多いですよね。自分を大きく見せようとしたり、異性にアプローチしてたり、その会話を通して、相手に何かしらの印象を与えようとする。それはほとんどの人がやってしまいがちのことですし、それが会話の醍醐味でもあったりします。しかし、人が大量にいる場所では、そういう意図が電波のように空間を充満していて、信じられないほどの情報量になることが多々あるんですよね。疲れているときは、それがとてつもなくしんどい。先日の繁華街では、今のご時世でそこまで人は多くなかったにも関わらず、吐きそうになってしまいました。

多分わたし自身に問題があるんでしょうか。ア○ペなんですかね。考慮しなくてもいい他人の意図を汲み取ろうと考えてしまったり、会話が下手くそなので、相手に言葉以上の印象を与えてしまうような発言をしてしまう。そんなこと意図してないのになぁ…そんなこと言いたいわけじゃないのになぁ…と思うことが往々にしてあります。また、やっぱり自己顕示欲とかもあって、余計な発言をしてしまうこともある。そういう自分が気持ち悪くなって後悔する。

だから本当に他人と話すことに苦手意識が昔からあって、比較的逐語的な本の世界や、そもそも会話のないイヌとの戯れに逃げてしまうんですよね。そういうのをなんとか克服しようと思って、大学ではできるだけコミュニケーションを取ろうと頑張ってたのですが、最近疲れてしまいました。

元気が出るまでゆっくりします。最後までありがとうございました。

『限りなく透明に近いブルー』の話。

わたしが大好き(?)な小説の一つに、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』というのがあります。村上龍が好きな人は、わたしの周りにはあまりいないのですが、今回はこの作品についてのお話です。

限りなく透明に近いブルー』は、米軍基地の街で生活する若者たちの、音楽とセックスとドラッグ、暴力に満ちた生活を描く作品です。これらの描写には官能的な要素はほとんどなく、ほとんど、残酷でグロテスクに描写されています。

村上龍の作品の多くにはこのような描写が多く見られ、それが苦手で村上龍を読まないという声もよく聞きます。確かに、それらはときに、その優れた表現技術もあって、読む気が失せるようなときもあります。しかし、非日常的な描写にもかかわらず、そこにわたしはどうしようもないリアリティを感じるのです。

限りなく透明に近いブルー』でのグロテスク描写は、わたしたちの日常に隠されたグロテスクさをわかりやすく表現したものに過ぎないとわたしは感じました。

ほとんどの人の生活には、ヤク漬け乱交パーティも暴力もほとんどありません。しかし、そのようなことを持ち出すまでもなく、わたしたちの日常は十分グロテスクなのです。

わたしは毎日コーヒーを飲むのですが、その充実した時間は、低賃金で働くコーヒー農家の犠牲の上に成り立っているものです。コーヒーだけでなく、日用品の中には、低賃金で働かされている外国人が作っているものが多い。また、わたしたちは、毎日信じられない量のゴミを排出し、交通機関は大量の二酸化炭素を生み出している。成立した恋愛の裏には、敗れさった恋愛がある。平等を謳う人間の口からは、権力への欲求と憎悪の匂いがする。愛の大切さを述べて愛を知らない人間を傷つける。われわれは普段から多くのものを踏み潰し、暗い感情を隠すように綺麗な言葉を吐き散らしている。ここでわたしが言いたいのは、日常のほとんどの事柄には、グロテスクな文脈が隠れているということです。

われわれは普段そのようなグロテスクな文脈を見ようとはしません。見ても自分には関係のないものとして扱う。しかし、それを否定しようとは思いません。わたしは毎日コーヒーを、ときには不味いと言いながら飲むし、紛争地域のニュースをスターバックスで読み、夜はそんなことを忘れてピザハットを注文する。抜け駆けして可愛い女を抱きたいし、洗い物が面倒だから割り箸を使う。グロテスクな文脈をいちいち考えていては、生きていけません。

しかし、そんなグロテスクな面がどうしても気になる人間もいる。人の(ときには自分の)言葉に隠された意図に敏感だったり、コーヒーを飲むときに憂鬱になったり、口だけの平和主義者の言葉に絶望したり。変に想像力があるために、日常の中のグロテスクが目に入ってしまう、ふとしたときに腐ったパイナップルのにおいがして、世界がすべて腐っているように思えるときがある。そういう人もいる。

そんな人は、周りからは普通に生きているように見えても、ひどく疲れるときがあるのだと思うし、毎日何かに傷ついているんだと思う。『限りなく透明に近いブルー』の主人公リュウもそうなんじゃないか。退廃した生活の中である程度楽しんで生きながら、知らず知らずのうちに傷ついてしまう。

そんなリュウが物語の最後に見つけた、限りなく透明に近いブルーのガラス破片はすぐに曇ってしまったが、確かにそれは希望だったのだろう。

 血を縁に残したガラスの破片は夜明けの空気に染まりながら透明に近い。  限りなく透明に近いブルーだ。僕は立ち上がり、自分のアパートに向かって歩きながら、このガラスみたいになりたいと思った。そして自分でこのなだらかな白い起伏を映してみたいと思った。僕自身に映った優しい起伏を他の人々にも見せたいと思った。  空の端が明るく濁り、ガラスの破片はすぐに曇ってしまった。鳥の声が聞こえるともうガラスには何も映っていない。 (村上龍限りなく透明に近いブルー』)

 このグロテスクな世界で、いつか一つのガラスの破片を見つけることができたならいいなと思う。それが何かはわからないし、人それぞれだとも思う。見つけられる頃には、リュウのようにボロボロになっているかもしれない。見つけられても一瞬しか手に残らないのかもしれない。でも探してみようと思う。

色んな意味で少し恥ずかしい記事になりましたが、最後までありがとうございました。 よければ『限りなく透明に近いブルー』を読んでみてください。

新装版 限りなく透明に近いブルー (講談社文庫)

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  • 作者:村上 龍
  • 発売日: 2009/04/15
  • メディア: ペーパーバック

詩の話。

先日、最果タヒの詩の展示会に行きました。

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詩が様々に展示される中、特に面白かったのは、この宙吊りにされた詩の空間です。

この空間では、最果タヒの詩の断片がランダムに目に入ってきます。偶然視界に入った詩たちが、その場限りの詩を作り、視線を移すと新たな詩が生まれる、そんな印象を受けました。

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ふだん私は詩を嗜みません。わかんないので。ただ、最果タヒの詩集だけはほとんど購入しています。

最果タヒの詩集に惹かれる理由はまだわからないので、ここでは語りません。でも、詩がわからないことについて少し考えてみようと思います。

私は詩というものがあまりわからないのですが、よくよく考えてみると、普段から歌詞のついた音楽は聴くんですよね。だから、案外身近なものではあるはずなんです。でも、詩というものに相対したとき、音楽を聴くときより身構えてしまう節がある。多分これがまずい。詩の意味を考えるとき、「この言葉は何を意味しているんだろう」と考えたり、他の言葉に変換しようとしてしまう。それが言葉の意味を考えることだと勘違いしている。

しかし、例えば「こんにちは」という言葉の意味を考えたときに、それを他の言葉で言い換えることに意味はあるのでしょうか。普段何気なく用いているこの言葉を、他の言葉で言い換えて意味を伝えようとしたとして、それは挨拶として機能するのでしょうか。

ここではこれ以上掘り下げませんが、多分「こんにちは」は、何か意味を伝えるというより、何か相手に「動き」(挨拶を仕返したり、会話を始めたり)を与える役割を担っているんですよね。相手に「動き」を与えることこそが、挨拶の意味そのものであるというのが、ざっくりとした私の考えです。

話を戻しますが、詩も多分同じように考えなければならない。詩の意味を解そうとして、他の言葉に言い換えようとしたり、メタファを考えたりすることは全く無意味で、その言葉から受ける「動き」そのものを受け取ること、これが詩の読み方の「「一つ」」ではないでしょうか。

「動き」という言葉を先程から使っていますけど、これは何も物理的で表面的な動きに限定するのではなく、感情が突き動かされることなど、かなり広い意味で用いています。

この「動き」をそのまま受け取ること、それは人それぞれ異なった形をとるでしょうけど、それが詩を楽しむことではないでしょうか。少なくとも、私にとってはそうです。

言霊という言葉がありますが、言霊を受け取る。そんな感じで、詩を楽しめればいいかなと思います。

言葉は私の最も興味のある分野で、もっと語りたいことはあるのですが、今回はここまでにします。ありがとうございました。

差別の話。

最近テレビを見たら森氏の差別発言の話題が多いですね。

私は恥ずかしながらこの手の問題に対しては発言を控えていますし、今回の騒動に対しても何かしら具体的な発言をするつもりはありません。正直この記事を書くのも、知人から攻撃を受けそうで怖いです(断っておきますけど、私はアンチフェミでも、男女平等に反対なわけではありません(何故かよく勘違いされるんですけど))。

しかし、さまざまな媒体での議論(笑)や 討論(笑)、批判(笑)を見る際に思うことがあって、それを少し記事にしてみようかと思いました。

まずいきなり言ってしまうと、「差別感情が誰にでもあることを忘れている方が多いのではないか」ということです。

差別感情に限らず、他人に対する負の感情、嫌悪や軽蔑、侮蔑などは、誰にでもあるでしょう。まずこの点を認めなくてはなりません。これは疑いようのない事実だと思います。これに対して、昨今の通俗的な道徳では、このような感情を持つことそのものを否定することが多いようのではないでしょうか? しかし、このような道徳感には問題があります。

我々は社会で生きる以上、ある程度道徳的な人間である必要があります(ここにも複雑な議論はあると思いますが、ここでは割愛)。そのような社会での負の感情を持つことを禁ずる道徳によって、我々の負の感情はなかったことにされているのではないのでしょうか。負の感情のない人間を演じる中で、自分の中の負の感情をなかったことにしてしまってませんか?

以上の話は少しざっくりしすぎな感はあります。しかし、明らかに差別的な発言を公の場で言ってしまう人間、それを批判しようとしてさらに差別的な発言を繰り返す人間を見ると、自身の差別感情を忘却していると思わざるを得ません。

差別的な発言は批判されなければなりませんし、差別的な制度は撤廃されなければなりません。しかし、差別的な発言をした人間をさも悪人かのように扱い叩き潰すような行為は、相手を悪として対地し、自らの悪をなかったことにする行為に他なりません。我々は、正義と不正義という幼稚な対立に、また差別感情をなくすための議論に終始すべきでなく、自身の差別感情との向き合い方を考えなければなりません。

これ以上具体的な話はしたくないので、ここで切ります。ざっくりしすぎて誤解を招く記事かもしれませんが、ここまで読んでくれてありがとうございました。

嫌いなじじぃの話

嫌いなじじぃがいます。

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彼の名前は、マルティン・ハイデガーといいます。

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ここで断っておきますが、ハイデガーは(多分)超偉大な哲学者であり、私はここで、ハイデガーの哲学にケチをつけるとか、何か学術的なことを言いたいわけではありません。

単に嫌いなんですよ。何十年も前の人間に対して嫌悪感を感じるのは馬鹿馬鹿しいことのように思われるかもしれませんが、嫌いは嫌いなのです。

今年度、私は大学で、ハイデガーについての講義を受けていました。先生の講義はとても興味深く、面白かったのですが、いかんせんハイデガーなのが嫌だった。

講義の最後数回は、毎回ハイデガーの詩の朗読を聴かされたのですが、正直って不快でした。あのファッ◯ンナ◯野郎のオ◯ニーを延々と聞かされて、気分が害されないはずがありません。

何より一番気に食わないのは、このじじぃ、弟子と不倫してたんですよ。いや、不倫なんてどうでもいいし、いくらでも勝手にしてくれって感じですが、その相手が、私が超かっこいいと尊敬するハンナ・アーレントだから話は別です。

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ハンナ・アーレントは、喫煙姿が最高に格好良い哲学者で、講義で教壇に立つときでも、一回は喫煙を挟むという最高の女性なのですが。若い頃のハイデガーと不倫関係にありました。

これは同担拒否を発揮せざるを得ません。まじでハイデガー嫌い。

が、まあ彼の哲学は(多分)偉大すぎて、学ばない道はないのですが。

科学的世界観が暴露した恐怖としてのクトゥルフ神話の話

皆さんはクトゥルフ神話をご存知でしょうか?

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クトゥルフ神話は、二十世紀に、H•P•ラヴクラフトとその友人達が、設定(神々や地名、書物など)を共有して作り上げたホラー小説群を元にした、架空の神話です。

現代では、ライトノベル(『這いよれ!ニャル子さん!』(2009〜2014年))やそのアニメ化、ゲーム、そしてTRPGの設定に多く用いられるなどして、様々なメディアでモチーフにされています。もちろん、原作の映画化も沢山あります(『カラー・アウト・オブ・スペース−遭遇−』(2019年)など)。朝霧カフカによるTRPGプレイ風の映像作品、『ゆっくり妖夢と本当は怖いクトゥルフ神話』は、一時期話題となり、私も何度か観ました(著作権の問題で色々あるようですが)。

クトゥルフ神話では、様々な神話生物が登場します。どの神話生物も、現実には存在してはならないような、冒涜的で、名状しがたく、見るだけで発狂してしまうような外見をしています。ただ、おおよそタコをモチーフとした見た目なので、タコを不浄のものとする文化ではなく、むしろ食べるような日本人には、あまり怖さがわからないという声もよくあります。これを擬人化して女の子にしてしまうから日本人はやばいわけです。

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原作のジャンルは、ホラーではありますが、コズミックホラー(宇宙的恐怖)と称されることが多いですし、ラヴクラフト自身がそれを提唱したそうです。全ての作品がコズミックホラーかといえばそうでもないのですが。

ところで、コズミックホラーとはなんでしょう。コズミックホラーとは、「無機質で広漠な宇宙において人類の価値観や希望には何の価値もなく、ただ意志疎通も理解も拒まれる絶対的他者の恐怖に晒されているのだという不安と孤独感をホラー小説に取り込んだもの」(Wikipedia)というような定義がよくされています。

さて、今回の記事は、「科学的世界観が暴露した恐怖としてのクトゥルフ神話の話」というタイトルです。私は、コズミックホラーが、人間の世界観の変貌によって生まれた新たなホラーだと考えています。

ここからの内容は、コズミックホラーというジャンルは、科学的世界観の台頭を起源に持つという、私自身の考察(感想)を述べます。

ニュートンらが近代の物理学を体系として完成させた後、もともとはキリスト教と不可分だった科学が、独立して世界観を作り始めました。キリスト教の世界観では、聖書に記されているように、世界も人間も神によって創られたことになっています。大雑把ですが、当時のヨーロッパではこのような世界観が一般的でした。しかし、科学の発展によって、宇宙はどうもとてつもなく広いこと、人間は神によって創られたのではなく猿から進化してきたとことなどが判明します。また技術の発展により、宗教に頼らずとも生活が豊かになることもあったのでしょう、徐々にキリスト教的世界観は薄れていきました(この辺の思想の変遷は、もっと詳しく調べなくてはいけません)。

ラブクラフト自身も無神論者であり、彼は科学的世界観の中で生きていたと言えます。現代では彼のように、宇宙と人間は、神によって創られたのではないと考える人は、少なくありません。

科学技術の発展は、我々に豊かな生活をもたらしてきました。しかし、このような科学的世界観は、一方で、重大な事実を暴露したのです。

それは、我々人類が、なんの必然性もなく、全く偶然に生まれ、しかも、広大すぎる宇宙では、信じられないほどちっぽけな存在であり、宇宙の気まぐれ一つで簡単に消え去ってしまうような存在であるという事実です。

読んでくださる方の中には、寝る前に、宇宙の壮大さを想像し、途方にくれてしまった、という経験がある方がいらっしゃるでしょう。そのような感覚は、宇宙の広さと、われわれの無意味さを、科学が明らかにしたことからくるのです。

キリスト教的世界観では、人間は、そしてこの大地も天も、神の意志によって創られました。人類の滅びのときでさえ(黙示録、ノアの大洪水など)、そこにはちゃんとした意味がありました。普段の生活も、終末において救いに至るための過程として意味づけされました(ちょっとここは自信ない)。しかし、科学的世界観のもとでは、人類の誕生にも、人類の終わりにも、何の意味もありません。たとえそれを奇跡と表現しようと、単なる偶然であることに変わりはありません。そして、広大すぎる宇宙の気まぐれには、我々には何ら交渉の余地なく、いつ訪れてもおかしくない意味のない終焉に怯えるだけなのです。

ここで、コズミックホラーの定義を思い出しましょう。それは、「無機質で広漠な宇宙において人類の価値観や希望には何の価値もなく、ただ意志疎通も理解も拒まれる絶対的他者の恐怖に晒されているのだという不安と孤独感をホラー小説に取り込んだもの」でした。少し私の恣意的な感じは認めなければなりませんが、コズミックホラーは、科学的世界観が暴露してしまった事実に対する恐怖なのです。コズミックホラーは、科学的世界観が生み出した新たな恐怖と言えるでしょう。

以上が、コズミックホラーの起源に対する私の見解です。

おまけ

クトゥルフ神話には、コズミックホラーそのものような神話生物が登場します。それは、アザトース(アザトホース)呼ばれる神です。

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アザトースについては、様々な見解があり、宇宙を創造したとか、我々の宇宙はアザトースの夢に過ぎないとされたりといろいろですが、アザトースの気まぐれによって、この宇宙など簡単に消えてしまうような、強大な存在として解釈されることが多いです。まさに、宇宙的恐怖の象徴的な神ですね。最後に、ラヴクラフトによるアザトースの描写を引用して、この記事を締めます。長々とありがとうございました。

「すべての無限の中核で冒瀆の言辞を吐きちらして沸きかえる、最下の混沌の最後の無定形の暗影にほかならぬ―すなわち時を超越した想像もおよばぬ無明の房室で、下劣な太鼓のくぐもった狂おしき連打と、呪われたフルートのかぼそき単調な音色の只中、餓えて齧りつづけるは、あえてその名を口にした者とておらぬ、果しなき魔王アザトホース」
(『ラヴクラフト全集 6』173頁)

本棚の話

皆さんの家には本棚がありますか? 大なり小なり、本棚を持つ方がほとんどだと思います。

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これは、うちの本棚を地震から守る『マスター六法&判例』です。

どうでもいいですが。

私は、多分本を割と持ってる方だと思います。まあ、私より本を持っている人間なんてザラなので、たくさん持ってるとは声を大にしては言えません。

しかしながら、結構あるので、「捨てたら?」とか、「売ったら?」と言われることがよくあります。「全部読んでるの?」とか。

はい、捨てません、売りません、読んでません。

なぜか? 理由は二つあります。

一つは単に収集癖ですね。コレクションなのです。男の子だからとか、知りませんが、やっぱり、「集める」のは好きなんですよ。ただ、いろんな種類のものを集め出したらキリがないので、集めるのは本だけにしています。

もう一つの理由は、これが今回のブログの本題なんですが。本棚って、辞書なんですね。

「全部読んでるの?」とよく聞かれますが、先ほども言った通り、読んでません。10%くらいは読んでないんじゃないかな……

それでいいんですよ。なぜなら私にとっては、本棚は辞書だから。皆さん辞書で何かを調べたりはしたことあっても、辞書を完読したことがある人は少ないと思います(辞書を読むのが趣味な人はいますから、一概には言えません)。だから、本棚の本も全部読まなくてもいいんですね、

100冊入っている本棚と、1000冊入っている本棚、どちらが優れた辞書なのか。当然1000冊入った辞書なのです。私は、辞書としての本棚を大きくしているのです。

気になることがあれば、自分の本棚で調べる。足らなければ、また買う(もちろん図書館なども使います)。そうやって、自分オリジナルの辞書を作るのが楽しいのです。

今回は殴り書きのような記事でした。次回はもっとちゃんとした記事を出す予定です。