詩の話。
先日、最果タヒの詩の展示会に行きました。
詩が様々に展示される中、特に面白かったのは、この宙吊りにされた詩の空間です。
この空間では、最果タヒの詩の断片がランダムに目に入ってきます。偶然視界に入った詩たちが、その場限りの詩を作り、視線を移すと新たな詩が生まれる、そんな印象を受けました。
ふだん私は詩を嗜みません。わかんないので。ただ、最果タヒの詩集だけはほとんど購入しています。
最果タヒの詩集に惹かれる理由はまだわからないので、ここでは語りません。でも、詩がわからないことについて少し考えてみようと思います。
私は詩というものがあまりわからないのですが、よくよく考えてみると、普段から歌詞のついた音楽は聴くんですよね。だから、案外身近なものではあるはずなんです。でも、詩というものに相対したとき、音楽を聴くときより身構えてしまう節がある。多分これがまずい。詩の意味を考えるとき、「この言葉は何を意味しているんだろう」と考えたり、他の言葉に変換しようとしてしまう。それが言葉の意味を考えることだと勘違いしている。
しかし、例えば「こんにちは」という言葉の意味を考えたときに、それを他の言葉で言い換えることに意味はあるのでしょうか。普段何気なく用いているこの言葉を、他の言葉で言い換えて意味を伝えようとしたとして、それは挨拶として機能するのでしょうか。
ここではこれ以上掘り下げませんが、多分「こんにちは」は、何か意味を伝えるというより、何か相手に「動き」(挨拶を仕返したり、会話を始めたり)を与える役割を担っているんですよね。相手に「動き」を与えることこそが、挨拶の意味そのものであるというのが、ざっくりとした私の考えです。
話を戻しますが、詩も多分同じように考えなければならない。詩の意味を解そうとして、他の言葉に言い換えようとしたり、メタファを考えたりすることは全く無意味で、その言葉から受ける「動き」そのものを受け取ること、これが詩の読み方の「「一つ」」ではないでしょうか。
「動き」という言葉を先程から使っていますけど、これは何も物理的で表面的な動きに限定するのではなく、感情が突き動かされることなど、かなり広い意味で用いています。
この「動き」をそのまま受け取ること、それは人それぞれ異なった形をとるでしょうけど、それが詩を楽しむことではないでしょうか。少なくとも、私にとってはそうです。
言霊という言葉がありますが、言霊を受け取る。そんな感じで、詩を楽しめればいいかなと思います。
言葉は私の最も興味のある分野で、もっと語りたいことはあるのですが、今回はここまでにします。ありがとうございました。