Soravelのジャンクブログ

哲学科の大学生が素人発言します。

『限りなく透明に近いブルー』の話。

わたしが大好き(?)な小説の一つに、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』というのがあります。村上龍が好きな人は、わたしの周りにはあまりいないのですが、今回はこの作品についてのお話です。

限りなく透明に近いブルー』は、米軍基地の街で生活する若者たちの、音楽とセックスとドラッグ、暴力に満ちた生活を描く作品です。これらの描写には官能的な要素はほとんどなく、ほとんど、残酷でグロテスクに描写されています。

村上龍の作品の多くにはこのような描写が多く見られ、それが苦手で村上龍を読まないという声もよく聞きます。確かに、それらはときに、その優れた表現技術もあって、読む気が失せるようなときもあります。しかし、非日常的な描写にもかかわらず、そこにわたしはどうしようもないリアリティを感じるのです。

限りなく透明に近いブルー』でのグロテスク描写は、わたしたちの日常に隠されたグロテスクさをわかりやすく表現したものに過ぎないとわたしは感じました。

ほとんどの人の生活には、ヤク漬け乱交パーティも暴力もほとんどありません。しかし、そのようなことを持ち出すまでもなく、わたしたちの日常は十分グロテスクなのです。

わたしは毎日コーヒーを飲むのですが、その充実した時間は、低賃金で働くコーヒー農家の犠牲の上に成り立っているものです。コーヒーだけでなく、日用品の中には、低賃金で働かされている外国人が作っているものが多い。また、わたしたちは、毎日信じられない量のゴミを排出し、交通機関は大量の二酸化炭素を生み出している。成立した恋愛の裏には、敗れさった恋愛がある。平等を謳う人間の口からは、権力への欲求と憎悪の匂いがする。愛の大切さを述べて愛を知らない人間を傷つける。われわれは普段から多くのものを踏み潰し、暗い感情を隠すように綺麗な言葉を吐き散らしている。ここでわたしが言いたいのは、日常のほとんどの事柄には、グロテスクな文脈が隠れているということです。

われわれは普段そのようなグロテスクな文脈を見ようとはしません。見ても自分には関係のないものとして扱う。しかし、それを否定しようとは思いません。わたしは毎日コーヒーを、ときには不味いと言いながら飲むし、紛争地域のニュースをスターバックスで読み、夜はそんなことを忘れてピザハットを注文する。抜け駆けして可愛い女を抱きたいし、洗い物が面倒だから割り箸を使う。グロテスクな文脈をいちいち考えていては、生きていけません。

しかし、そんなグロテスクな面がどうしても気になる人間もいる。人の(ときには自分の)言葉に隠された意図に敏感だったり、コーヒーを飲むときに憂鬱になったり、口だけの平和主義者の言葉に絶望したり。変に想像力があるために、日常の中のグロテスクが目に入ってしまう、ふとしたときに腐ったパイナップルのにおいがして、世界がすべて腐っているように思えるときがある。そういう人もいる。

そんな人は、周りからは普通に生きているように見えても、ひどく疲れるときがあるのだと思うし、毎日何かに傷ついているんだと思う。『限りなく透明に近いブルー』の主人公リュウもそうなんじゃないか。退廃した生活の中である程度楽しんで生きながら、知らず知らずのうちに傷ついてしまう。

そんなリュウが物語の最後に見つけた、限りなく透明に近いブルーのガラス破片はすぐに曇ってしまったが、確かにそれは希望だったのだろう。

 血を縁に残したガラスの破片は夜明けの空気に染まりながら透明に近い。  限りなく透明に近いブルーだ。僕は立ち上がり、自分のアパートに向かって歩きながら、このガラスみたいになりたいと思った。そして自分でこのなだらかな白い起伏を映してみたいと思った。僕自身に映った優しい起伏を他の人々にも見せたいと思った。  空の端が明るく濁り、ガラスの破片はすぐに曇ってしまった。鳥の声が聞こえるともうガラスには何も映っていない。 (村上龍限りなく透明に近いブルー』)

 このグロテスクな世界で、いつか一つのガラスの破片を見つけることができたならいいなと思う。それが何かはわからないし、人それぞれだとも思う。見つけられる頃には、リュウのようにボロボロになっているかもしれない。見つけられても一瞬しか手に残らないのかもしれない。でも探してみようと思う。

色んな意味で少し恥ずかしい記事になりましたが、最後までありがとうございました。 よければ『限りなく透明に近いブルー』を読んでみてください。

新装版 限りなく透明に近いブルー (講談社文庫)

新装版 限りなく透明に近いブルー (講談社文庫)

  • 作者:村上 龍
  • 発売日: 2009/04/15
  • メディア: ペーパーバック