Soravelのジャンクブログ

哲学科の大学生が素人発言します。

「怖い」の話

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皆さんはホラーは好きですか?

私は「そこそこ」好きです。ホラーコンテンツを片っぱしから漁るほど好きというわけではありません。しかし、今思えば、小さい頃から定期的にホラーコンテンツに触れてきました。

小学生の頃、周りの友達がジブリ作品などの映画を親と見ている中、私はホラー映画や戦争映画ばかり観せられていました。ホラーなら『口裂け女』『リング』『怪談新耳袋』、戦争なら『硫黄島からの手紙』『連合艦隊』とかですかね。当時はめちゃめちゃ嫌でした。今ではそれぞれ好きなジャンルの一つですけどね。まあ、個人的な話は置いときます。

ホラーが好きな人も嫌いな人もいると思いますが、どちらの人もその作品に対して「怖さ」を感じていることは間違いないでしょう。「怖さ」を感じなければ、その作品を嗜む理由も、嫌う理由もありませんからね。

では、その「怖さ」について掘り下げましょう。ホラー作品の「怖さ」はどこからくるのでしょうか?

いきなり核心をつく引用をします。

「ゴルゴンやヒュドラやキマイラ──ケライノーと化鳥達の恐ろしい物語は──迷信を抱く頭脳の中に自らを再現するかもしれない──しかし、かれらはうちにあり、永遠のものだ。さもなければ、目醒めている時の分別で嘘だと承知しているもののことを語り聞かされたからといって、それがどうして我々の心を動かすことができよう? 我々はそうしたものが身に危害を加え得る能力を考えて、自然と恐怖を抱くのだろうか?──いや、けっしてそんなことはない! こうした恐怖はもっと古いものだ。それは肉体よりも彼方まで遡る──あるいは、肉体がなくとも同じことだっただろう」
(チャールズ・ラム「魔女その他夜の恐怖」)

聞き慣れない言葉が多いかもしれませんが、要するに、創作でしかない怪物達に恐怖を抱くのは、それが私たちに危害を加えるかもしれないからではなく(そもそも存在しないのだから、危害もクソもない)、それらが、私たちの本質的な恐怖を映し出したものだから、ということです。

正直、これに全面的に同意するのは難しい。『リング』を観た後、テレビから貞子が出てきて殺されるのではないかと恐れることもあるでしょう。また、「肉体よりも彼方まで」という箇所については、感覚的に理解が難しいところがある。

しかし、私の少ない経験上ではありますが、名作と言われるホラー作品には、人間の持つ本質的な「恐怖」がしっかり描かれているのではないでしょうか(「本質的」は言い過ぎではないかと思うので、「日常的」として話を進めます)。逆に、昨今のホラーに駄作が多いのは、これをしっかり描けていないからでしょう。

名作ホラーは、人間の日常的な「恐怖」を写し出している。

『リング』(1998年)が名作だったのは、日常的な怖さを、貞子という怪物で写しとったからでしょう。昔の深夜のテレビには、何か怖いところがありました。真っ暗な画面には底知れない怖さがああり、テレビを点けても、ホワイトノイズが流れたり、不快な音が流れていたり。この恐怖が、おそらく、底の見えない井戸を覗いたときの恐怖とマッチし、井戸から這い上がる貞子が、テレビの中から這い出てくるようになったのでしょう。このテレビの怖さをしっかりと貞子に写し取れたからこそ、『リング』は名作となったのではないでしょうか。

しかし、深夜にも番組が流れるのが当たり前になり、見えなかったテレビの底は、電源をつけるだけであっさりと見えるようになった現在では、テレビは恐怖の対象ではなくなってしまいました。だからこの時代に『リング』は流行らない。むしろマスコットキャラクター扱いです(それはそれで好き)。最新の『貞子3D』(2012年)では、パソコンやスマホから貞子が現れるようになりましたが、深夜のパソコンやスマホは当たり前のことであり、もともとそこに恐怖はありません。貞子は、ただの神出鬼没の化け物になってしまいました。他にも理由はありますが、だから『貞子3D』は駄作だったのです。

ここでは、「本質的」な恐怖ではなく、「日常的」な恐怖で話を進めました。『リング』はその一例です。私が嗜んだ他の名作では、『呪怨』(2003年)、ゲームでは『夜廻』(2015年)などがあります(私見)。一方、「本質的」な恐怖を描いた作品もあります(これも私見)。例えば、ラヴクラフトらのクトゥルフ神話エドガー・アラン・ポーの作品などがそうだと思います。

長くなったので、それらにここでは触れませんが、クトゥルフ神話は特に私のお気に入りなので、また違う機会に取り上げたいと思います。

鳩が嫌いな話

街中にいる鳩って不快じゃありませんか?私は大嫌いです。

 

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腹立つ顔してますよね。

 

街中にいる鳩って、天敵が少ないのか(街中では、猫やカラスなどが天敵らしい)、まったく危機感なく闊歩してますよね。ムカつくので少し脅かしてやろうと近づいてみても、なかなか逃げる様子がない。加えて、人間からの施しを、さも当たり前のことのように、我が物顔で近づいてくる。まるで平和ボケした日本人の顔見みたいです。平和の象徴ならぬ、平和ボケの象徴ですか。

 

そういう、ある意味での平和ボケを批判した哲学者がいます。スペインの哲学者、オルテガです。オルテガが述べた、「慢心しきったお坊ちゃん」という人間形態について引用します。

 

「彼(慢心しきったお坊ちゃん)は、驚くほど効果的な道具、卓効のある薬、未来のある国家、快適な権利にとり囲まれた自分を見る。ところが彼は、そうした薬品や道具を発明することのむずかしさやそれらの生産を将来も保証することのむずかしさを知らないし、国家という組織が不安定なものであることに気づかないし、自己のうちに責任を感じるということがほとんどないのである、こうした不均衡が彼から生の本質そのものとの接触を奪ってしまい、彼の生きるものとしての根源としての真正を奪いとり腐敗させてしまうのである」

       (オルテガ『大衆の反逆』神吉敬三訳、筑摩書房、1995年、pp.142−143)

 

長くなってしまいました。オルテガは『大衆の反逆』において、十九世紀のヨーロッパ人の平均人のことを「慢心しきったお坊ちゃん」と呼んだのですが、正直、日本人のことにしか聞こえませんでした(私だけ?)。

 

オルテガはこの言葉を用いて、辛辣な社会批判をしたのですが、それはここでは置いといて、都合の良い素人解釈のみをしましょう。

 

私たちの身の回りのもの、生活用品から国家という社会システムまで、誰かが苦労して作り上げたものです。人権ですら、万人にあって当たり前のものではなかった。昔の人が必死こいて手に入れたものです。しかし、いつしか当たり前になり、まるで果実が自然発生するかの如く、勝手にあるものだと勘違いするようになりました。そしてそれらが思い通りにならないようになると、当然のように怒り出し、作り出した人々に罵詈雑言を投げるのです。まさに、「慢心しきったお坊ちゃん」が駄々をこねているように。

 

しかし、身の回りのものは全て、いつなくなってもおかしくない不安定なものなのです。そういう危機感を全く忘れ去ってしまい、我が物顔で生活していると、いつしかあの厚顔無恥な鳩のような顔になってしまいます。私も、街中で鳩を見かけると、あんな顔になってはならないと、気を引き締める思いです。