Soravelのジャンクブログ

哲学科の大学生が素人発言します。

鳩が嫌いな話

街中にいる鳩って不快じゃありませんか?私は大嫌いです。

 

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腹立つ顔してますよね。

 

街中にいる鳩って、天敵が少ないのか(街中では、猫やカラスなどが天敵らしい)、まったく危機感なく闊歩してますよね。ムカつくので少し脅かしてやろうと近づいてみても、なかなか逃げる様子がない。加えて、人間からの施しを、さも当たり前のことのように、我が物顔で近づいてくる。まるで平和ボケした日本人の顔見みたいです。平和の象徴ならぬ、平和ボケの象徴ですか。

 

そういう、ある意味での平和ボケを批判した哲学者がいます。スペインの哲学者、オルテガです。オルテガが述べた、「慢心しきったお坊ちゃん」という人間形態について引用します。

 

「彼(慢心しきったお坊ちゃん)は、驚くほど効果的な道具、卓効のある薬、未来のある国家、快適な権利にとり囲まれた自分を見る。ところが彼は、そうした薬品や道具を発明することのむずかしさやそれらの生産を将来も保証することのむずかしさを知らないし、国家という組織が不安定なものであることに気づかないし、自己のうちに責任を感じるということがほとんどないのである、こうした不均衡が彼から生の本質そのものとの接触を奪ってしまい、彼の生きるものとしての根源としての真正を奪いとり腐敗させてしまうのである」

       (オルテガ『大衆の反逆』神吉敬三訳、筑摩書房、1995年、pp.142−143)

 

長くなってしまいました。オルテガは『大衆の反逆』において、十九世紀のヨーロッパ人の平均人のことを「慢心しきったお坊ちゃん」と呼んだのですが、正直、日本人のことにしか聞こえませんでした(私だけ?)。

 

オルテガはこの言葉を用いて、辛辣な社会批判をしたのですが、それはここでは置いといて、都合の良い素人解釈のみをしましょう。

 

私たちの身の回りのもの、生活用品から国家という社会システムまで、誰かが苦労して作り上げたものです。人権ですら、万人にあって当たり前のものではなかった。昔の人が必死こいて手に入れたものです。しかし、いつしか当たり前になり、まるで果実が自然発生するかの如く、勝手にあるものだと勘違いするようになりました。そしてそれらが思い通りにならないようになると、当然のように怒り出し、作り出した人々に罵詈雑言を投げるのです。まさに、「慢心しきったお坊ちゃん」が駄々をこねているように。

 

しかし、身の回りのものは全て、いつなくなってもおかしくない不安定なものなのです。そういう危機感を全く忘れ去ってしまい、我が物顔で生活していると、いつしかあの厚顔無恥な鳩のような顔になってしまいます。私も、街中で鳩を見かけると、あんな顔になってはならないと、気を引き締める思いです。