Soravelのジャンクブログ

哲学科の大学生が素人発言します。

差別の話。

最近テレビを見たら森氏の差別発言の話題が多いですね。

私は恥ずかしながらこの手の問題に対しては発言を控えていますし、今回の騒動に対しても何かしら具体的な発言をするつもりはありません。正直この記事を書くのも、知人から攻撃を受けそうで怖いです(断っておきますけど、私はアンチフェミでも、男女平等に反対なわけではありません(何故かよく勘違いされるんですけど))。

しかし、さまざまな媒体での議論(笑)や 討論(笑)、批判(笑)を見る際に思うことがあって、それを少し記事にしてみようかと思いました。

まずいきなり言ってしまうと、「差別感情が誰にでもあることを忘れている方が多いのではないか」ということです。

差別感情に限らず、他人に対する負の感情、嫌悪や軽蔑、侮蔑などは、誰にでもあるでしょう。まずこの点を認めなくてはなりません。これは疑いようのない事実だと思います。これに対して、昨今の通俗的な道徳では、このような感情を持つことそのものを否定することが多いようのではないでしょうか? しかし、このような道徳感には問題があります。

我々は社会で生きる以上、ある程度道徳的な人間である必要があります(ここにも複雑な議論はあると思いますが、ここでは割愛)。そのような社会での負の感情を持つことを禁ずる道徳によって、我々の負の感情はなかったことにされているのではないのでしょうか。負の感情のない人間を演じる中で、自分の中の負の感情をなかったことにしてしまってませんか?

以上の話は少しざっくりしすぎな感はあります。しかし、明らかに差別的な発言を公の場で言ってしまう人間、それを批判しようとしてさらに差別的な発言を繰り返す人間を見ると、自身の差別感情を忘却していると思わざるを得ません。

差別的な発言は批判されなければなりませんし、差別的な制度は撤廃されなければなりません。しかし、差別的な発言をした人間をさも悪人かのように扱い叩き潰すような行為は、相手を悪として対地し、自らの悪をなかったことにする行為に他なりません。我々は、正義と不正義という幼稚な対立に、また差別感情をなくすための議論に終始すべきでなく、自身の差別感情との向き合い方を考えなければなりません。

これ以上具体的な話はしたくないので、ここで切ります。ざっくりしすぎて誤解を招く記事かもしれませんが、ここまで読んでくれてありがとうございました。