「グッチぃ・マク・ぼ」の哲学ではない何か

哲学科の大学生が書きます。

野矢茂樹の『心と他者』を読む1

はじめに

 日頃から書籍をまとめたブログを公開したいなと思っていたのですが、今回その初めての試みとして、野矢茂樹の『心と他者』を選びました。哲学者としては比較的平易な言葉を用いる野矢ですが、このブログでは何回かにわけてその内容をさらにわかりやすくまとめ上げることを目標にします。

 

虚と実

 山道で歩いていると足下に蛇がいたとしましょう。あなたはとても驚き、とっさに距離をとってしまうかもしれない。しかしそれはよく見てみるとただの古びた縄だった。こんな状況を想像してみてほしい。

 

 現実の世界には蛇はおらず、蛇の姿は誤った知覚像だったのだ。あなたはそう思うだろう。そして縄の知覚像が正しい知覚像だったのだとも思う。

 

 しかし、何をもって蛇が誤った知覚像で、縄が正しい知覚像だと判断しているのでしょうか?

 

 今見ているあなたの光景が幻覚でないことがどうして言えるのでしょうか?

 

 ここで今あなたが正しい知覚をしているのか、それとも誤った幻覚を見ているのかを棚上げにして、あなたがありありと(正しい正しくないに関わらず)見ているその光景にだけを考えてみたとき、その光景を「立ち現われ」と呼ぶことにしましょう。

 

「立ち現われ」には真偽がない。遠くに丸く立ち現われた塔が近づくと角塔に立ち現われた場合、いずれの立ち現われが真でいずれかが偽ということはない。(中略)ともに、事実そのように立ち現われるのである。(大森荘蔵『心と他者』p.146)

 

 正しいか正しくないか、幻覚であるかそうでないかの関係なしに、まずこの虚でも実でもない(虚実無記な) 立ち現われがあなたに与えられます。ではその立ち現われはなにによって知覚とされ、あるいは幻覚とされるのでしょうか?

 

実際あなたはどうするのか

 蛇の正体は実際は縄だった、あなたは安心する。しかしまだ心臓がどきどきしている。おそるおそる近づいてよく見たり、木の棒でつついたりしてみる。動くことはない、やはりただの縄だったあなたはほっと胸をなでおろす。

 

 この一連の動作のなかではあなたが見ているほとんどの立ち現われは縄であり、蛇であったのはほんの一瞬のことだった。こうして縄が正しい知覚であり、蛇が幻覚や見間違いであったことがわかる。

 

 つまりあなたは、蛇の立ち現われと縄の立ち現われをそれぞれまとめ上げ、大きいほうを知覚と見なしたのだ。

 

 このように、立ち現われをまとめ上げ、その大なるものを実在とし、小なるものを非実在とする見方を「現象主義」と呼ぶことにしましょう。

 

実際あなたはそうしていない

 「現象主義」の立場では、あなたは立ち現われから実在性のチェックを行い、合格したものを実在として扱うことになります。

 

 しかしその観点からいうとあなたの生活はひどく軽率で怠慢なうちになされているといえます。あなたは私のブログをスマホかパソコンで読んでくださっていると思いますが、あなたはスマホの実在をいちいちチェックしてから手に持ったのでしょうか?答えはノーのはずです。あなたはスマホの実在性のチェックを怠り、勝手に実在していると思い込んでスマホを手に取ったのです。これは現象主義の立場からいえばひどく怠慢な事でしょう。

 

 われわれの生活があたかも不当に根拠を欠いたもののように思わせるこのような現象主義の見方に、野矢は意義を唱えます。野矢によればわれわれの生活は「正当に根拠を欠いたもの」なのです。

 

実践の枠組としてしての命題

 あなたが部屋でスマホを探しているときのことを想像してください。このとき

 

スマホは壁をひとりでに、しかも壁を通り抜けて動き回りはしない」

 

という命題について考えてみましょう。この命題について、二つのことが言えます。

 

①この命題を疑うと、そもそもスマホ探しはできない。

②この命題はスマホ探しの前に検証されているわけではない。

 

この二つです。

 

 ではなぜあなたはこの命題を自明のこととして受け入れているのでしょうか。

 

 それは、この命題を前提としてなされる様々な行為が、いままで首尾よく行われてきたからにほかなりません。

 

 つまりあなたは、この命題を検証しているからスマホ探しができるのではなく、スマホやものを探す行為(ゲーム)をまず子供のころ学び、それがうまくなされるうちに、無意識のうちにこの命題を受け入れてきたのです。

 

 このようなある行為の実践の枠組となる命題を「枠組命題」と呼ぶことにします。そして枠組命題は以下の二つの条件を満たします。

 

⑴その命題を疑ったのではその実践が成立しなくなり、しかも

⑵その命題は決して実践に先立って検証されているわけではない。

 

枠組命題としての実在

 現象主義的な実在は、立ち現われをチェックすることで検証されるものでした。しかし、枠組命題という考えをもとにしたとき、実践の枠組としての実在という見方ができます。

 

㈠われわれのする実践・行為は、関連する事物の実在性を踏まえており、それを疑ったのでは成立しない。

㈡そうした事物の実在性は、けっしてそれらの実践・行為に先立って検証されているわけではない。

 

 子どもは、本が存在する、椅子が存在する、等々を学ぶのではない。本をとってくること、椅子に腰掛けること、等を学ぶのである。

(ウィトゲンシュタイン『確実性の問題』第476節)

 

  子どもはけっして本の実在性を確認する術を学んでから、「本を読む」とか「本をとる」などの行為をするわけではありません。単に「本を読む」「本をとる」という実践を学ぶことで、無自覚的に枠組としての実在性を学ぶのです。

 

 

この続きは次回の記事で。

 

心と他者 (中公文庫)

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