Soravelのジャンクブログ

哲学科の大学生が素人発言します。

差別の話。

最近テレビを見たら森氏の差別発言の話題が多いですね。

私は恥ずかしながらこの手の問題に対しては発言を控えていますし、今回の騒動に対しても何かしら具体的な発言をするつもりはありません。正直この記事を書くのも、知人から攻撃を受けそうで怖いです(断っておきますけど、私はアンチフェミでも、男女平等に反対なわけではありません(何故かよく勘違いされるんですけど))。

しかし、さまざまな媒体での議論(笑)や 討論(笑)、批判(笑)を見る際に思うことがあって、それを少し記事にしてみようかと思いました。

まずいきなり言ってしまうと、「差別感情が誰にでもあることを忘れている方が多いのではないか」ということです。

差別感情に限らず、他人に対する負の感情、嫌悪や軽蔑、侮蔑などは、誰にでもあるでしょう。まずこの点を認めなくてはなりません。これは疑いようのない事実だと思います。これに対して、昨今の通俗的な道徳では、このような感情を持つことそのものを否定することが多いようのではないでしょうか? しかし、このような道徳感には問題があります。

我々は社会で生きる以上、ある程度道徳的な人間である必要があります(ここにも複雑な議論はあると思いますが、ここでは割愛)。そのような社会での負の感情を持つことを禁ずる道徳によって、我々の負の感情はなかったことにされているのではないのでしょうか。負の感情のない人間を演じる中で、自分の中の負の感情をなかったことにしてしまってませんか?

以上の話は少しざっくりしすぎな感はあります。しかし、明らかに差別的な発言を公の場で言ってしまう人間、それを批判しようとしてさらに差別的な発言を繰り返す人間を見ると、自身の差別感情を忘却していると思わざるを得ません。

差別的な発言は批判されなければなりませんし、差別的な制度は撤廃されなければなりません。しかし、差別的な発言をした人間をさも悪人かのように扱い叩き潰すような行為は、相手を悪として対地し、自らの悪をなかったことにする行為に他なりません。我々は、正義と不正義という幼稚な対立に、また差別感情をなくすための議論に終始すべきでなく、自身の差別感情との向き合い方を考えなければなりません。

これ以上具体的な話はしたくないので、ここで切ります。ざっくりしすぎて誤解を招く記事かもしれませんが、ここまで読んでくれてありがとうございました。

嫌いなじじぃの話

嫌いなじじぃがいます。

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彼の名前は、マルティン・ハイデガーといいます。

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ここで断っておきますが、ハイデガーは(多分)超偉大な哲学者であり、私はここで、ハイデガーの哲学にケチをつけるとか、何か学術的なことを言いたいわけではありません。

単に嫌いなんですよ。何十年も前の人間に対して嫌悪感を感じるのは馬鹿馬鹿しいことのように思われるかもしれませんが、嫌いは嫌いなのです。

今年度、私は大学で、ハイデガーについての講義を受けていました。先生の講義はとても興味深く、面白かったのですが、いかんせんハイデガーなのが嫌だった。

講義の最後数回は、毎回ハイデガーの詩の朗読を聴かされたのですが、正直って不快でした。あのファッ◯ンナ◯野郎のオ◯ニーを延々と聞かされて、気分が害されないはずがありません。

何より一番気に食わないのは、このじじぃ、弟子と不倫してたんですよ。いや、不倫なんてどうでもいいし、いくらでも勝手にしてくれって感じですが、その相手が、私が超かっこいいと尊敬するハンナ・アーレントだから話は別です。

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ハンナ・アーレントは、喫煙姿が最高に格好良い哲学者で、講義で教壇に立つときでも、一回は喫煙を挟むという最高の女性なのですが。若い頃のハイデガーと不倫関係にありました。

これは同担拒否を発揮せざるを得ません。まじでハイデガー嫌い。

が、まあ彼の哲学は(多分)偉大すぎて、学ばない道はないのですが。

科学的世界観が暴露した恐怖としてのクトゥルフ神話の話

皆さんはクトゥルフ神話をご存知でしょうか?

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クトゥルフ神話は、二十世紀に、H•P•ラヴクラフトとその友人達が、設定(神々や地名、書物など)を共有して作り上げたホラー小説群を元にした、架空の神話です。

現代では、ライトノベル(『這いよれ!ニャル子さん!』(2009〜2014年))やそのアニメ化、ゲーム、そしてTRPGの設定に多く用いられるなどして、様々なメディアでモチーフにされています。もちろん、原作の映画化も沢山あります(『カラー・アウト・オブ・スペース−遭遇−』(2019年)など)。朝霧カフカによるTRPGプレイ風の映像作品、『ゆっくり妖夢と本当は怖いクトゥルフ神話』は、一時期話題となり、私も何度か観ました(著作権の問題で色々あるようですが)。

クトゥルフ神話では、様々な神話生物が登場します。どの神話生物も、現実には存在してはならないような、冒涜的で、名状しがたく、見るだけで発狂してしまうような外見をしています。ただ、おおよそタコをモチーフとした見た目なので、タコを不浄のものとする文化ではなく、むしろ食べるような日本人には、あまり怖さがわからないという声もよくあります。これを擬人化して女の子にしてしまうから日本人はやばいわけです。

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原作のジャンルは、ホラーではありますが、コズミックホラー(宇宙的恐怖)と称されることが多いですし、ラヴクラフト自身がそれを提唱したそうです。全ての作品がコズミックホラーかといえばそうでもないのですが。

ところで、コズミックホラーとはなんでしょう。コズミックホラーとは、「無機質で広漠な宇宙において人類の価値観や希望には何の価値もなく、ただ意志疎通も理解も拒まれる絶対的他者の恐怖に晒されているのだという不安と孤独感をホラー小説に取り込んだもの」(Wikipedia)というような定義がよくされています。

さて、今回の記事は、「科学的世界観が暴露した恐怖としてのクトゥルフ神話の話」というタイトルです。私は、コズミックホラーが、人間の世界観の変貌によって生まれた新たなホラーだと考えています。

ここからの内容は、コズミックホラーというジャンルは、科学的世界観の台頭を起源に持つという、私自身の考察(感想)を述べます。

ニュートンらが近代の物理学を体系として完成させた後、もともとはキリスト教と不可分だった科学が、独立して世界観を作り始めました。キリスト教の世界観では、聖書に記されているように、世界も人間も神によって創られたことになっています。大雑把ですが、当時のヨーロッパではこのような世界観が一般的でした。しかし、科学の発展によって、宇宙はどうもとてつもなく広いこと、人間は神によって創られたのではなく猿から進化してきたとことなどが判明します。また技術の発展により、宗教に頼らずとも生活が豊かになることもあったのでしょう、徐々にキリスト教的世界観は薄れていきました(この辺の思想の変遷は、もっと詳しく調べなくてはいけません)。

ラブクラフト自身も無神論者であり、彼は科学的世界観の中で生きていたと言えます。現代では彼のように、宇宙と人間は、神によって創られたのではないと考える人は、少なくありません。

科学技術の発展は、我々に豊かな生活をもたらしてきました。しかし、このような科学的世界観は、一方で、重大な事実を暴露したのです。

それは、我々人類が、なんの必然性もなく、全く偶然に生まれ、しかも、広大すぎる宇宙では、信じられないほどちっぽけな存在であり、宇宙の気まぐれ一つで簡単に消え去ってしまうような存在であるという事実です。

読んでくださる方の中には、寝る前に、宇宙の壮大さを想像し、途方にくれてしまった、という経験がある方がいらっしゃるでしょう。そのような感覚は、宇宙の広さと、われわれの無意味さを、科学が明らかにしたことからくるのです。

キリスト教的世界観では、人間は、そしてこの大地も天も、神の意志によって創られました。人類の滅びのときでさえ(黙示録、ノアの大洪水など)、そこにはちゃんとした意味がありました。普段の生活も、終末において救いに至るための過程として意味づけされました(ちょっとここは自信ない)。しかし、科学的世界観のもとでは、人類の誕生にも、人類の終わりにも、何の意味もありません。たとえそれを奇跡と表現しようと、単なる偶然であることに変わりはありません。そして、広大すぎる宇宙の気まぐれには、我々には何ら交渉の余地なく、いつ訪れてもおかしくない意味のない終焉に怯えるだけなのです。

ここで、コズミックホラーの定義を思い出しましょう。それは、「無機質で広漠な宇宙において人類の価値観や希望には何の価値もなく、ただ意志疎通も理解も拒まれる絶対的他者の恐怖に晒されているのだという不安と孤独感をホラー小説に取り込んだもの」でした。少し私の恣意的な感じは認めなければなりませんが、コズミックホラーは、科学的世界観が暴露してしまった事実に対する恐怖なのです。コズミックホラーは、科学的世界観が生み出した新たな恐怖と言えるでしょう。

以上が、コズミックホラーの起源に対する私の見解です。

おまけ

クトゥルフ神話には、コズミックホラーそのものような神話生物が登場します。それは、アザトース(アザトホース)呼ばれる神です。

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アザトースについては、様々な見解があり、宇宙を創造したとか、我々の宇宙はアザトースの夢に過ぎないとされたりといろいろですが、アザトースの気まぐれによって、この宇宙など簡単に消えてしまうような、強大な存在として解釈されることが多いです。まさに、宇宙的恐怖の象徴的な神ですね。最後に、ラヴクラフトによるアザトースの描写を引用して、この記事を締めます。長々とありがとうございました。

「すべての無限の中核で冒瀆の言辞を吐きちらして沸きかえる、最下の混沌の最後の無定形の暗影にほかならぬ―すなわち時を超越した想像もおよばぬ無明の房室で、下劣な太鼓のくぐもった狂おしき連打と、呪われたフルートのかぼそき単調な音色の只中、餓えて齧りつづけるは、あえてその名を口にした者とておらぬ、果しなき魔王アザトホース」
(『ラヴクラフト全集 6』173頁)

本棚の話

皆さんの家には本棚がありますか? 大なり小なり、本棚を持つ方がほとんどだと思います。

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これは、うちの本棚を地震から守る『マスター六法&判例』です。

どうでもいいですが。

私は、多分本を割と持ってる方だと思います。まあ、私より本を持っている人間なんてザラなので、たくさん持ってるとは声を大にしては言えません。

しかしながら、結構あるので、「捨てたら?」とか、「売ったら?」と言われることがよくあります。「全部読んでるの?」とか。

はい、捨てません、売りません、読んでません。

なぜか? 理由は二つあります。

一つは単に収集癖ですね。コレクションなのです。男の子だからとか、知りませんが、やっぱり、「集める」のは好きなんですよ。ただ、いろんな種類のものを集め出したらキリがないので、集めるのは本だけにしています。

もう一つの理由は、これが今回のブログの本題なんですが。本棚って、辞書なんですね。

「全部読んでるの?」とよく聞かれますが、先ほども言った通り、読んでません。10%くらいは読んでないんじゃないかな……

それでいいんですよ。なぜなら私にとっては、本棚は辞書だから。皆さん辞書で何かを調べたりはしたことあっても、辞書を完読したことがある人は少ないと思います(辞書を読むのが趣味な人はいますから、一概には言えません)。だから、本棚の本も全部読まなくてもいいんですね、

100冊入っている本棚と、1000冊入っている本棚、どちらが優れた辞書なのか。当然1000冊入った辞書なのです。私は、辞書としての本棚を大きくしているのです。

気になることがあれば、自分の本棚で調べる。足らなければ、また買う(もちろん図書館なども使います)。そうやって、自分オリジナルの辞書を作るのが楽しいのです。

今回は殴り書きのような記事でした。次回はもっとちゃんとした記事を出す予定です。

「怖い」の話

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皆さんはホラーは好きですか?

私は「そこそこ」好きです。ホラーコンテンツを片っぱしから漁るほど好きというわけではありません。しかし、今思えば、小さい頃から定期的にホラーコンテンツに触れてきました。

小学生の頃、周りの友達がジブリ作品などの映画を親と見ている中、私はホラー映画や戦争映画ばかり観せられていました。ホラーなら『口裂け女』『リング』『怪談新耳袋』、戦争なら『硫黄島からの手紙』『連合艦隊』とかですかね。当時はめちゃめちゃ嫌でした。今ではそれぞれ好きなジャンルの一つですけどね。まあ、個人的な話は置いときます。

ホラーが好きな人も嫌いな人もいると思いますが、どちらの人もその作品に対して「怖さ」を感じていることは間違いないでしょう。「怖さ」を感じなければ、その作品を嗜む理由も、嫌う理由もありませんからね。

では、その「怖さ」について掘り下げましょう。ホラー作品の「怖さ」はどこからくるのでしょうか?

いきなり核心をつく引用をします。

「ゴルゴンやヒュドラやキマイラ──ケライノーと化鳥達の恐ろしい物語は──迷信を抱く頭脳の中に自らを再現するかもしれない──しかし、かれらはうちにあり、永遠のものだ。さもなければ、目醒めている時の分別で嘘だと承知しているもののことを語り聞かされたからといって、それがどうして我々の心を動かすことができよう? 我々はそうしたものが身に危害を加え得る能力を考えて、自然と恐怖を抱くのだろうか?──いや、けっしてそんなことはない! こうした恐怖はもっと古いものだ。それは肉体よりも彼方まで遡る──あるいは、肉体がなくとも同じことだっただろう」
(チャールズ・ラム「魔女その他夜の恐怖」)

聞き慣れない言葉が多いかもしれませんが、要するに、創作でしかない怪物達に恐怖を抱くのは、それが私たちに危害を加えるかもしれないからではなく(そもそも存在しないのだから、危害もクソもない)、それらが、私たちの本質的な恐怖を映し出したものだから、ということです。

正直、これに全面的に同意するのは難しい。『リング』を観た後、テレビから貞子が出てきて殺されるのではないかと恐れることもあるでしょう。また、「肉体よりも彼方まで」という箇所については、感覚的に理解が難しいところがある。

しかし、私の少ない経験上ではありますが、名作と言われるホラー作品には、人間の持つ本質的な「恐怖」がしっかり描かれているのではないでしょうか(「本質的」は言い過ぎではないかと思うので、「日常的」として話を進めます)。逆に、昨今のホラーに駄作が多いのは、これをしっかり描けていないからでしょう。

名作ホラーは、人間の日常的な「恐怖」を写し出している。

『リング』(1998年)が名作だったのは、日常的な怖さを、貞子という怪物で写しとったからでしょう。昔の深夜のテレビには、何か怖いところがありました。真っ暗な画面には底知れない怖さがああり、テレビを点けても、ホワイトノイズが流れたり、不快な音が流れていたり。この恐怖が、おそらく、底の見えない井戸を覗いたときの恐怖とマッチし、井戸から這い上がる貞子が、テレビの中から這い出てくるようになったのでしょう。このテレビの怖さをしっかりと貞子に写し取れたからこそ、『リング』は名作となったのではないでしょうか。

しかし、深夜にも番組が流れるのが当たり前になり、見えなかったテレビの底は、電源をつけるだけであっさりと見えるようになった現在では、テレビは恐怖の対象ではなくなってしまいました。だからこの時代に『リング』は流行らない。むしろマスコットキャラクター扱いです(それはそれで好き)。最新の『貞子3D』(2012年)では、パソコンやスマホから貞子が現れるようになりましたが、深夜のパソコンやスマホは当たり前のことであり、もともとそこに恐怖はありません。貞子は、ただの神出鬼没の化け物になってしまいました。他にも理由はありますが、だから『貞子3D』は駄作だったのです。

ここでは、「本質的」な恐怖ではなく、「日常的」な恐怖で話を進めました。『リング』はその一例です。私が嗜んだ他の名作では、『呪怨』(2003年)、ゲームでは『夜廻』(2015年)などがあります(私見)。一方、「本質的」な恐怖を描いた作品もあります(これも私見)。例えば、ラヴクラフトらのクトゥルフ神話エドガー・アラン・ポーの作品などがそうだと思います。

長くなったので、それらにここでは触れませんが、クトゥルフ神話は特に私のお気に入りなので、また違う機会に取り上げたいと思います。

鳩が嫌いな話

街中にいる鳩って不快じゃありませんか?私は大嫌いです。

 

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腹立つ顔してますよね。

 

街中にいる鳩って、天敵が少ないのか(街中では、猫やカラスなどが天敵らしい)、まったく危機感なく闊歩してますよね。ムカつくので少し脅かしてやろうと近づいてみても、なかなか逃げる様子がない。加えて、人間からの施しを、さも当たり前のことのように、我が物顔で近づいてくる。まるで平和ボケした日本人の顔見みたいです。平和の象徴ならぬ、平和ボケの象徴ですか。

 

そういう、ある意味での平和ボケを批判した哲学者がいます。スペインの哲学者、オルテガです。オルテガが述べた、「慢心しきったお坊ちゃん」という人間形態について引用します。

 

「彼(慢心しきったお坊ちゃん)は、驚くほど効果的な道具、卓効のある薬、未来のある国家、快適な権利にとり囲まれた自分を見る。ところが彼は、そうした薬品や道具を発明することのむずかしさやそれらの生産を将来も保証することのむずかしさを知らないし、国家という組織が不安定なものであることに気づかないし、自己のうちに責任を感じるということがほとんどないのである、こうした不均衡が彼から生の本質そのものとの接触を奪ってしまい、彼の生きるものとしての根源としての真正を奪いとり腐敗させてしまうのである」

       (オルテガ『大衆の反逆』神吉敬三訳、筑摩書房、1995年、pp.142−143)

 

長くなってしまいました。オルテガは『大衆の反逆』において、十九世紀のヨーロッパ人の平均人のことを「慢心しきったお坊ちゃん」と呼んだのですが、正直、日本人のことにしか聞こえませんでした(私だけ?)。

 

オルテガはこの言葉を用いて、辛辣な社会批判をしたのですが、それはここでは置いといて、都合の良い素人解釈のみをしましょう。

 

私たちの身の回りのもの、生活用品から国家という社会システムまで、誰かが苦労して作り上げたものです。人権ですら、万人にあって当たり前のものではなかった。昔の人が必死こいて手に入れたものです。しかし、いつしか当たり前になり、まるで果実が自然発生するかの如く、勝手にあるものだと勘違いするようになりました。そしてそれらが思い通りにならないようになると、当然のように怒り出し、作り出した人々に罵詈雑言を投げるのです。まさに、「慢心しきったお坊ちゃん」が駄々をこねているように。

 

しかし、身の回りのものは全て、いつなくなってもおかしくない不安定なものなのです。そういう危機感を全く忘れ去ってしまい、我が物顔で生活していると、いつしかあの厚顔無恥な鳩のような顔になってしまいます。私も、街中で鳩を見かけると、あんな顔になってはならないと、気を引き締める思いです。