「男女の友情は成立するのか」とかいう話
「男女の友情は成立するのか」って話、よくされてますよね。なんでこんな議論が始まったのか知りませんが、想像してみますと、友人だと思ってた異性から性的なアプローチを受けて気持ち悪くなったという経験から「男女の友情は成立しない」みたいな結論に至った人がいたんでしょうね。知らんけど。
まあ俺としてはこの議論はすごいバカバカしいなと思っているので、色々書きます。わりと適当に書くし、超短いので、もっと詳しく書くべきところは、あとで追記します。
1.性欲があれば友情ではない
ちょっとよくわかりませんね。性欲が不潔なものだと仮定しても、人間誰しも他人に対して不潔な感情を抱いてるんじゃないですか?劣等感や嫉妬などそういうのを抱きながら人間関係を成立させているわけじゃないですか。なんで性欲があればそれは友情ではなくなるんですかね。
2.性欲がないほうが高尚であるみたいな風潮
なんですか?食事から食欲を抜いたら高尚になるんですか?
3.まず根本的な間違い
これは俺が一番言いたかったことなんですけど、性欲とか友情とか愛情だとかが人間関係の成分のように扱われているように思えるんですよね、気のせいでしょうか?
みんな平気で人間関係から性欲や友情を足し引きしたりするんですよ。これが全く理解できない。人間関係は感情の足し算で表現されるんですか?
ある人は「夫婦間の関係から性欲を引いたものが愛」なんて言ってましたが、こういう比喩表現ってすごい違和感ないですか?俺だけですかね?よく使われてる表面的な言語表現につられて「本当の(?)」人間関係の捉え方を見失ってません?こういう感情を成分のように扱う頓珍漢な言語表現で議論するからしょうもない話が繰り広げられてるんじゃないですか?ほんとに異性と接したことある?
多分もっと掘り下げられる
このお話もっと掘り下げられると思います。例えば「友情が成立」なんて言ってきましたけど。なんですか?「友情が成立する」って、なんでみんな平気な顔してこんな表現してるんですか?友情が成立した瞬間に立ち会ったことあるんですか?
ってな感じで行きすぎると根本的な話になりすぎてここでは無意味なのでやめます。ただ、俺には全く理解できない表現や人間関係の捉え方をしてる人が沢山いて、共感できる人がいたらいいなと思います。
日本人が嘘つきな理由 意外と面白い入試現代文2
おはようございます。グッチぃです。今回は、『日本人と日本社会のゆくえ』(河合隼雄)からの文章です。
どうして日本人はウソつきなのか?
今回は、日本人はどうしてウソつきなのか?がテーマです。「ウソ」といっても、相手を陥れるようなウソではありません。空気を読んで本当は思ってもないことを言ったりすることです。これは日本人の「場→個人」の考えから生まれる行動のようです。それに対し欧米では「個人→場」の考えがあるようです。
「すみません」といいたくなる
日本人は(もちろん傾向として)「すみません」という言葉をよく使いたがります。英語であればどう考えても「サンキュー」と言うべき場で「すみません」と言いたがります。どうしてなのでしょうか?
それは、日本人は人と人の関係において、全体の「場」を大切にするからです。二人の間でどちらが正しいか、正しくないかを決めてしまわないように、「すみません」という言葉は便利なのです。
それに対して欧米では個人と個人の関係を重視します。そしてその考えから見ると、日本人の「すみません」は「ウソ」である言えることになります。もう少し詳しく論じてみましょう。
日本と欧米の「ウソ」の捉え方
「場」を中心に考える日本人は、ある程度「ウソ」を言わねばならないことがあります。日本人は「ウソ」をある程度許容しています。
それに対して欧米では「ウソ」=「悪」です。日本人のように「ウソ―www」などのように気軽に「liar!」なんて言うと物議をかもしかねません。
昔「ウソ」と「虚偽」は違うものだった
昔は村々に評判のウソツキと呼ばれるような老人が一人はいて、人々を楽しませていたという話があります。この時代では、「ウソ」というのは面白いお話という意味合いで使われていたようです。
ところが近代になって、欧米の影響を受け、「ウソ」と「虚偽」が一括されるようになり、同じ悪事として認識されるようになりました。
ウソに対するジョーク
場を保つために日本では「ウソ」が用いられます。では欧米は場を気にしないで本当のことばかり言っているかというとそうではありません。欧米には「ウソ」に対して「ジョーク」があります。
日本では「場」をまず考え、次に「個人」へ考えが至ります(「場→個人」)。それに対して欧米ではまず「個人」があり、その次に「場」を考えます(「個人→場」)。
なので、日本人なら「場」を保つために「ウソ」を言ってもその言葉に(限度はあるが)責任はありませんが、欧米ならその「ウソ」にその人の責任が伴うので日本的な「ウソ」は言えないわけです。そこで欧米ではジョークが用いられます。
相手から無理な要求をされたとき、日本人なら「難しいことですが、何とか考えてみましょう」などと言うかもしれません。しかし欧米的にはこれは「ウソ」であり、「ノー」と言うべきなのです。ここで欧米人は、相手の気持ちや自分はどうしてもやりたいんだけれどもできない、などの意味合いを含んだジョークを言うわけです。これができる人間は「社交的」と言われます。
日本人はどうするべきか
「日本人はノーが言えない」なんてことがよく言われ、「ノー」がはっきり言える人間を育てるべきだなんて言われることがあります。しかし社交性のない「ノー」は単に人間関係をギクシャクさせるだけなのです。
河合は無理して欧米に合わせるのではなくて、日本人の「場→個人」の考えを欧米人の相手に伝えるほうがいいと主張します。
おわりに
日本的な「場→個人」の考えと欧米的な「個人→場」の分析の仕方はとても興味深いです。しかし主語が大きすぎたり、執筆されたのが結構まえなので、現代ではまた話が変わってくる可能性があります。
あたまは悪いほうがいい 意外と面白い入試現代文1
入試現代文はおもしろい
皆さんは中高生時代に現代文の勉強をしたと思いますが、多くの人はあまり面白くないと思いながら勉強していたかもしれません。
しかし、受験を離れてからバイトで現代文を教える機会があり、読んでみると案外面白いんですね。
というのも、著名な方の作品のなかでも、主張をわかりやすくまとめられた文章を選んでいるからなんです。
そこで、入試現代文の問題集などで取り上げられている文章を簡単にまとめてみたら面白いんじゃないかと思い、このブログ記事を書いてみることにしました。最初の問題文は寺田虎彦の『科学者とあたま』からです。楽しんでいただけたら幸いです。
科学者のあたまは悪いほうがいい?
世の中では「科学者はあたまが良いほうがいい」という考えが一般的でしょう、その一方で「科学者はあたまが悪くならなければならない」という考えもまたある意味では正しいと彼は言います。科学者には「科学者に必要な頭の悪さ」というものがあるのです。
それは
⑴物わかりの悪い朴念仁であること
⑵困難が見えない空想的なひとであること
⑶だめだとされる試みを続けること
⑷できると思い込むこと
の四点です。詳しく見ていきましょう。
⑴物わかりの悪い朴念仁であること
科学では、普通の人が容易に納得してしまうような現象に対して「なぜ?」を突き付けることが重要です。
例えば紙に火を近づけると燃えます。普通の人はそれに対して何の疑問も抱かず「火が近づいたから燃えた」と簡単に納得して生活できると思うのですが、科学者はそんなに簡単に納得してはいけないのです。
科学者はそこに「何故紙はすぐ燃えるが鉄は燃えないのか?」「燃えるものと燃えないものの違いは何なのか?」などの疑問を認め懸命に考える、そういう物わかりの悪い朴念仁でなくてはならないのです。
⑵困難が見えない空想的な人であること
妙にあたまのいい人が何か始めようとするとき、これからおこる多くの困難が次々と頭に浮かびます。そのとき前進する勇気をなくしてしまいやすいのです。
ですからこれからの困難がよくわかっていない空想家のほうが、かえって前に進みやすいのです。そして難関にであったとしても、存外切り抜けていくのです。なぜならどうしても抜けられない難関というものは極めて稀だからです。
⑶だめだとされる試みを続けること
⑵とも関連するのですが、科学者は頭の良い先人がだめだとした試みを一生懸命続けてしまうような人でなければなりません。
確かにあたまの良い先人の言うように確かにそれがだめな試みであることもあるでしょう。しかしそれがわかった頃には、なにかしらほかのだめでないものの糸口を発見しているのです。
それは実際に行動しなかった人間には手に入れることのできない糸口であることも少なくありません。
⑷できると思い込むこと
えらい、すごいとされる人の仕事を見たとき、自分にはできないと思ってしまうことは、向上心を阻害します。
スキーの羽生選手のジャンプを見て、自分にもできる!と思う人は少ないでしょう。
しかし、「自分でもできるんじゃね?」と思ってしまうくらいのあたまの悪さが向上心の刺激にとても重要です。
そして自分もやってみる、そこに成長がありますし、実際に成功させてしまうこともあるのです。
科学者はすごい人を見て、「自分でもできるんじゃね?」と思ってしまうような人間であるべきなのです。
おわり
この文章には結構独断的なところがところどころ散見されますが、科学だけでなく何かにチャレンジする人に非常に助けになる文章であるように思われます。多少のあたまの悪さが、人が行動しチャレンジすることに必要ということです。
長期休暇が疲れる話
おはようございます。グッチぃです。今回は酷く個人的な経験のお話です。
私と同じ大学生の皆さんはもうすぐ春休みの終わりを迎えようとしているのではないでしょうか?
それにしても大学生の長期休暇は本当に長いですね、私は二か月ほど講義がありません。
そういう長期休暇のなか、少なからず自律神経が失調しがちになる人が少なからずいるのではないでしょうか?私も若干そのきらいがあります。ここ最近は大分ましですが。
長期休暇ってほとんど自分で自分の生活を管理しないといけないわけですけど、それって案外難しいですよね。と簡単に書いておりますが、私は二年の宅浪の期間で絶望的にこれができず、本当に絶望的な気分でした。
朝起きて夜寝ることができない人がいる
朝起きて寝るという基本的な生活サイクルが長期休暇で乱れずにはいられない人は結構いると思います。
長期休暇では授業など、生活リズムを強制するものが少ないですから、無理もありません。
で、生活リズムがずれるだけならいいんですが、その中でメンタルをやってしまう人が一定人数いるんですよね。
さらに酷いのは、生活リズムを無理に戻したはいいものの、二、三日でまた狂ってしまう。これを繰り返して寝る時間がまったく安定しないような状態に陥ってしまうこともあります。
私は宅浪の二年間ずっとそうでした。
生活リズムが狂うとどうなるのか
私の場合、生活リズムが狂うことで、酷く自己肯定感が欠如し、自己嫌悪で憂鬱な気分が長く続いていました。
当時は受験生でしたから、「朝起きて夜寝るという当たり前のことができない自分が、何かをなせるはずがない」などと考え、深夜には勉強どころか自己嫌悪をツイッターで吐露する毎日でした。
酷い時期は、夜眠れない憂鬱な人が集まるサイトにアクセスし、お互いに傷を舐めあうということもありました。
意外と周りに理解されない
夜眠れずに安定しない生活リズムから憂鬱な気分になる。これは案外周りに理解されないんですよね。
生活リズムを安定させるために親に協力を仰いだこともありましたが、具体的な協力は何も得られませんでした。
病院に行って薬をもらおうと思ったこともありましたが、親にばれるのが嫌で行きませんでした(ドリエルは何度か試しましたが、あまり役に立ちませんでした)。
どうすればいいかはわからない
このブログは何か対処法を提供するものではないので、ここで役に立つ情報を書くことはできません。というかあったら私がやっています。
とはいえ私が二年の宅浪で実感したのは、人間は結局集団で生きる生き物だということです。
宅浪の期間と同じで、毎日を共同体のなかに身を投じることのない長期休暇では、まるで自分がどこの共同体にも属していないような生活になっていしまいます。そのなかでは生活サイクルの乱れは防ぐことは難しいです。
人間ある程度共同体に行動を強制されてちょうどいいのかなと思います。
野矢茂樹の『心と他者』を読む1
はじめに
日頃から書籍をまとめたブログを公開したいなと思っていたのですが、今回その初めての試みとして、野矢茂樹の『心と他者』を選びました。哲学者としては比較的平易な言葉を用いる野矢ですが、このブログでは何回かにわけてその内容をさらにわかりやすくまとめ上げることを目標にします。
虚と実
山道で歩いていると足下に蛇がいたとしましょう。あなたはとても驚き、とっさに距離をとってしまうかもしれない。しかしそれはよく見てみるとただの古びた縄だった。こんな状況を想像してみてほしい。
現実の世界には蛇はおらず、蛇の姿は誤った知覚像だったのだ。あなたはそう思うだろう。そして縄の知覚像が正しい知覚像だったのだとも思う。
しかし、何をもって蛇が誤った知覚像で、縄が正しい知覚像だと判断しているのでしょうか?
今見ているあなたの光景が幻覚でないことがどうして言えるのでしょうか?
ここで今あなたが正しい知覚をしているのか、それとも誤った幻覚を見ているのかを棚上げにして、あなたがありありと(正しい正しくないに関わらず)見ているその光景にだけを考えてみたとき、その光景を「立ち現われ」と呼ぶことにしましょう。
「立ち現われ」には真偽がない。遠くに丸く立ち現われた塔が近づくと角塔に立ち現われた場合、いずれの立ち現われが真でいずれかが偽ということはない。(中略)ともに、事実そのように立ち現われるのである。(大森荘蔵『心と他者』p.146)
正しいか正しくないか、幻覚であるかそうでないかの関係なしに、まずこの虚でも実でもない(虚実無記な) 立ち現われがあなたに与えられます。ではその立ち現われはなにによって知覚とされ、あるいは幻覚とされるのでしょうか?
実際あなたはどうするのか
蛇の正体は実際は縄だった、あなたは安心する。しかしまだ心臓がどきどきしている。おそるおそる近づいてよく見たり、木の棒でつついたりしてみる。動くことはない、やはりただの縄だったあなたはほっと胸をなでおろす。
この一連の動作のなかではあなたが見ているほとんどの立ち現われは縄であり、蛇であったのはほんの一瞬のことだった。こうして縄が正しい知覚であり、蛇が幻覚や見間違いであったことがわかる。
つまりあなたは、蛇の立ち現われと縄の立ち現われをそれぞれまとめ上げ、大きいほうを知覚と見なしたのだ。
このように、立ち現われをまとめ上げ、その大なるものを実在とし、小なるものを非実在とする見方を「現象主義」と呼ぶことにしましょう。
実際あなたはそうしていない
「現象主義」の立場では、あなたは立ち現われから実在性のチェックを行い、合格したものを実在として扱うことになります。
しかしその観点からいうとあなたの生活はひどく軽率で怠慢なうちになされているといえます。あなたは私のブログをスマホかパソコンで読んでくださっていると思いますが、あなたはスマホの実在をいちいちチェックしてから手に持ったのでしょうか?答えはノーのはずです。あなたはスマホの実在性のチェックを怠り、勝手に実在していると思い込んでスマホを手に取ったのです。これは現象主義の立場からいえばひどく怠慢な事でしょう。
われわれの生活があたかも不当に根拠を欠いたもののように思わせるこのような現象主義の見方に、野矢は意義を唱えます。野矢によればわれわれの生活は「正当に根拠を欠いたもの」なのです。
実践の枠組としてしての命題
あなたが部屋でスマホを探しているときのことを想像してください。このとき
「スマホは壁をひとりでに、しかも壁を通り抜けて動き回りはしない」
という命題について考えてみましょう。この命題について、二つのことが言えます。
①この命題を疑うと、そもそもスマホ探しはできない。
②この命題はスマホ探しの前に検証されているわけではない。
この二つです。
ではなぜあなたはこの命題を自明のこととして受け入れているのでしょうか。
それは、この命題を前提としてなされる様々な行為が、いままで首尾よく行われてきたからにほかなりません。
つまりあなたは、この命題を検証しているからスマホ探しができるのではなく、スマホやものを探す行為(ゲーム)をまず子供のころ学び、それがうまくなされるうちに、無意識のうちにこの命題を受け入れてきたのです。
このようなある行為の実践の枠組となる命題を「枠組命題」と呼ぶことにします。そして枠組命題は以下の二つの条件を満たします。
⑴その命題を疑ったのではその実践が成立しなくなり、しかも
⑵その命題は決して実践に先立って検証されているわけではない。
枠組命題としての実在
現象主義的な実在は、立ち現われをチェックすることで検証されるものでした。しかし、枠組命題という考えをもとにしたとき、実践の枠組としての実在という見方ができます。
㈠われわれのする実践・行為は、関連する事物の実在性を踏まえており、それを疑ったのでは成立しない。
㈡そうした事物の実在性は、けっしてそれらの実践・行為に先立って検証されているわけではない。
子どもは、本が存在する、椅子が存在する、等々を学ぶのではない。本をとってくること、椅子に腰掛けること、等を学ぶのである。
(ウィトゲンシュタイン『確実性の問題』第476節)
子どもはけっして本の実在性を確認する術を学んでから、「本を読む」とか「本をとる」などの行為をするわけではありません。単に「本を読む」「本をとる」という実践を学ぶことで、無自覚的に枠組としての実在性を学ぶのです。
この続きは次回の記事で。
「地球にやさしい」という言葉の欺瞞
おはようございます。自己紹介の投稿をしてからまったく更新してませんでしたが、一発目の投稿です。
「地球に優しい」って言葉を聞いて、イライラしたら哲学したらいいと思うよ
— グチマクぼ・Soravel (@coinlockergucci) 2019年1月16日
最近の僕のツイートなんですが、「地球にやさしい」と聞いたらイライラするねって話です。
地球温暖化やら環境破壊が話題になり始めてよく耳にするようになった言葉ですけど、この言葉を聞いて「それは違くね?」と思った人も結構いるんじゃないでしょうか。
「地球にやさしい」のではなく「人間にやさしい」のでは?
というか「地球」って誰だ?「地球」が嫌がったりするんですか?痛いとか言うんですか?
もちろん日本にはアニミズム的な思想が刺さるという話も分かるのですが、どうも欺瞞くさい。
よくドラマで親が子供に「あなたのためなんだから」と言いながら無茶苦茶な子供のことを一切考えない醜悪な親が描かれているじゃないですか、その親は結局自分のために子供を教育しているんですね。
それと同じような欺瞞を感じてとても気持ち悪い。我々人間のためと直接言えばいいのに、、、
グッチぃ・マク・ぼ とは何者か。
こんにちは、僕はグッチぃ・マク・ぼ です。これから記事を投稿していこうと思っているのですが、まず始めに簡単な自己紹介と、これからの方針についての話をします。
グッチぃ・マク・ぼ について。
僕は某大学の文学部哲学科の学部生です。まだ具体的に研究対象があるわけではないのですが、主に言語の哲学について考えたり勉強したりしています。
グッチぃ・マク・ぼ を構成する要素
1.読書について
なんといってもまずはこれでしょう。最近は哲学書を読むことが多いですが、小説も好きです。森博嗣、西尾維新、辻村深月、夢野久作、村上龍、村上春樹、最果タヒ(詩人ですが)あたりをよく読んでます。また簡単な理工書を読んだりします(高校時代+二年間は理系でした)。
2.音楽について
軽音サークルに所属したり、大学外でもバンドを組んでギターを弾いています。色々好きなアーティストさんがいますが、最も好きなのはReolさんとAmazarashiさんですかね。
3.カポエイラについて
あまり知らない方が多いと思いまずがカポエイラという格闘技をしています。これについては説明するのが難しいので、またいずれ記事にしたいですね。
このブログの方針について
このブログでは主に二つのカテゴリーに分けて記事を挙げていこうと思います。一つは日々考えていることをまとめる記事。一つは勉強の記事です。
前者はできるだけ多く書いていこうと思っています。普段Twitterに投稿している内容を掘り下げていきたいと思っています。
後者は全然ビジョンが決まっていないのでどうなるかわかりませんが、読者がいることを意識したうえでアウトプットすることが自分のためになると考えているので低頻度ながらもやっていこうと思っています。
おわりに
できるだけ続けてみようと思っています。何分ブログなどあまりしたことがないので、アドヴァイスなどいただけると嬉しいです。