Soravelのジャンクブログ

哲学科の大学生が素人発言します。

卒業ライブを終えて

先日、所属しているサークルの卒業ライブが終わった。まだ大学にはいるので、またライブに出るかもしれないけど、一つの節目ということで、ここに少し書こうと思う。

僕は小学校の時からギターを持ってはいたけど、家にあるだけでまったく触っていなかった。だから大学になって初めて軽音というコミュニティに所属することになった。

最初の一年間は正直全然つまらなかった。まず弾けないし、わかんないし。何をどう練習すればいいのかも、どれくらい練習したらライブでしっかり演奏できるのか、まったくわかんなかった。ライブもつまんないから、練習しない、練習しないから、ライブもつまんない、加えて同期とも全然仲良くなれない。だから一年生でやめようと思っていた。

その年、サークルのギター不足のせいもあり、学園祭のステージのオーディションバンドに誘われた。コピーしたのはナンバーガールというバンド。まったく知らないバンドだったが、なぜか承諾した。でもこれが一つのきっかけになったんだと思う。

オーディションということもあり、自分なりに頑張って練習した。曲は、「透明少女」「鉄風 鋭くなって」「Omoide In My Head」。これがすごく楽しかった。初めてバンドって楽しいなって思った。

当たり前だけど、楽しかったのは、練習したからだ。練習しないと楽しくない。音楽に限らず、何かを楽しもうと思ったらそれなりの訓練がいる。そんな当たり前の事実を経験した。

それからcoldrain、そしてCrossfaithのコピバンを組んだ。これがラウドやメタルにハマるきっかけになった。これがなかったら、サークル辞めてただろうな。その時期から他のバンドでもライブがどんどん楽しくなった。

それでも、当然しんどい時間も長かった。練習自体もそうだけど、周りが上手な人ばっかりで、自分が足を引っ張るんじゃないかって不安がずっとあった。これは最後のスタジオまでずっとあった。吐きそうになりながらスタジオに行ってた。実際に足を引っ張った時も少なくない。それでもバンドを組んでくれて優しくしてくれたみんなには感謝しかない。ありがとう。

サークルでずっと気になっていたのは、一年生のぼくと同じで、ライブをまだ楽しめてない人がいるんじゃないかってこと。初心者で始めたばかりだからかもしれないし、仲良くもできないからかもしれない。でも、しんどくても是非続けてほしい。多分辛い時間も長いけど、ライブが楽しくなる瞬間がいつか来ると思う。そして、今すでにライブを楽しめている人たちは、まだライブをまだ楽しめてない人に、楽しさを伝えてほしい。伝え方はなんでもいい。練習に付き合うのもいいし、知識を伝えるのでも、ライブで伝えるのでも。

偉そうなことかもしれないけど、後輩たちは、何か一つの目標を見つけてほしい。サークル活動を続けているうちに、ぼくは一つの目標を見つけた。ぼくよりギターが上手いやつはたくさんいる。だから、一番かっこよく演奏できる人になろうと思った。だからステージングにはすごく拘った。ライブ中の動きはを動画で見直して、家で頭振る練習とかしてた(親に心配された)。そして、やっぱりかっこよく弾けるようになるには、上手くならなきゃいけない。一つの目標に付随して、わずかながらだけど、この四年間で上手くなったと思う。

そして卒業ライブ、最高に楽しくて、気持ちよかった。

でも、やっぱり、動画を見直すと反省点もたくさん見つかる。悔しいのでまだまだ上手くなりたいし、ライブしたいなと思った。ギターのローンもあと3年くらいあるし、まだ音楽を続けたいな。

みんなありがとう。ぼくは、どこぞの上手い人の演奏なんかより、サークルのみんなのライブが好きでした。楽しかったです。 たとえ時間がたって忘れてしまうことも多くなっても、この四年間が、これからのぼくの一部としてずっとあり続けます。

Omoide In My Head

コーヒーと豚と白痴

はじめに断っておきますが、ここで倫理とか道徳、社会を良くしよう! とか言いたいわけじゃないです。ぼくは哲学科だけど、割と倫理とかどうでもいいと思ってる節がある。あと、「なにが言いたかったのか?」という現代文みたいな読み方をされると困る。結論はない。それでもいいという方は読んでくれると、少し嬉しい。

ぼくはコーヒーを毎日飲む。家でも飲むし、喫茶店でも飲む。コーヒーが好きだからだし、起きてからコーヒーを飲まないと、一日が始まらないと本気で思っている。美味しいと思うこともあれば、不味いと文句も言う。コーヒーはぼくのQOL(笑)を支えてくれている。

コーヒーはぼくをハッピーにするわけだけど、しかし一方で、飲むたびに頭によぎることがある。コーヒー豆の農家のことです。

コーヒー豆の生産は、ブラジルやらベトナム、コロンビア、インドネシアエチオピア、この五カ国で大体半分くらいです。そこで生産支えている農家のうち、今でも少なくない人がアホみたいな低賃金で働かされている(あえて「されている」という表現を使うね)。彼らは、靴も履けないし、水も食料も十分じゃない。教育も満足に受けれていないし、学校すらない地域もある。

現在コーヒー市場を支配している多国籍企業は、クラフトフーズ社、ネスレ社、P&G社、サラ・リー社。バイヤーたちは、NY市場の状況に応じて、コーヒー豆の値段を決める(生産者ではない!)。農家は、どれほど安い値段を言われても、売るしかない現状です(もちろんそういった事態をどうにかしようとする人々もいる)。

企業の代表たちは自分で作ったわけでもない低価格で買った高品質なコーヒー豆を誇り、農家はいつまでも無知で貧乏で、味のわからないアホなJKがスターバックスでフラペチーノを飲み、ぼくは飲み残した不味いコーヒーを台所に捨てる。

コーヒーだけではない、ぼくたちはそういったグロテスクな文脈の中で生きている。それは少し想像力を働かせればわかることです。グローバルな世の中では、それは無関係なことでは決してない。ぼくの手元にはコーヒーがある。

このような文脈は、コーヒーを通して線のように世界とぼくたちを繋げているのではありません。隠世が常世にピッタリとくっついているように、そこにある。そう思ったのは、ある映像を見たから。

最近、屠殺場の動画をいくつか見たのですが、その中に、死んだ豚をシュレッダーにかける動画があった。えらい音を立てて豚がバラバラになるわけだけど、四肢のある豚が、ほんの数秒のうちに、スーパーで並んでいる切り身になってしまった。ぼくたちは普段豚がどうやって殺されるか考えずに豚丼を食うわけだけど、普段考えない見たくもないグロテスクな文脈は、ほんの数秒という身近さでそこにある。(シュレッダーを使うのは、ほんの少しの人たちで、倫理的に問題があるとして、さらに少なくなっているみたい)

それを実感したぼくは、しばらくの間、コーヒーを飲むたびに農家の肌にたかるハエがそこにいるような感覚に陥った(次の日には平気で飲むわけだけど)。

で、最初にも言ったように、ぼくはなにも、このような現状を知って農家や動物に感謝しようとか、社会をよくしようとか、人間のかくあるべき倫理を言いたいわけではない。そんなことは、他の人がたくさん言っている。

ようは、選択や決断の問題だと思う。

コーヒー農家の現状を知ったとき、ぼくたちは選択しなければならないという切迫感に襲われる。もし、そうでないのなら、それは想像力がないか、まだよく知らないか、コーヒー農家のことをその辺の虫けらと同じように思ってるかのどれかじゃないか。

では、選択するとは、何を選択するのか。生き方じゃないかな。

現状を変えようと活動する、ボランティアに参加する、あるいは、搾取上等で農家を踏み潰して生きていく、全く知らないふりをする、など。

人がどういった選択をするべきか、などはここでは関心しない。ただ、選択をしない、選択をしたことに自覚がない、そんなことでいいのか。

全く論理的じゃないけど、ものごとを知るとは選択を迫られることだと思う。選択をすることは生きることだと思う。

でも、選択したくないから、一生無知でいるのもいいと思う。というか、ぼくはむしろ無知でいたい。

最後に、ぼくの好きなセリフを『虐殺器官』から引用して終わりです。読んでくれてありがとう。

「人々は見たいものしか見ない。世界がどういう悲惨に覆われているか、気にもしない。見れば自分が無力感に襲われるだけだし、あるいは本当に無力な人間が、自分は無力だと居直って怠惰の言い訳をするだけだ。だが、それでもそこはわたしが育った世界だ。スターバックスに行き、アマゾンで買い物をし、見たいものだけを見て暮らす。わたしはそんな堕落した世界を愛しているし、そこに生きる人々を大切に思う。文明は……良心は、もろく、壊れやすいものだ。文明は概してより他者の幸せを願う方向に進んでいるが、まだじゅうぶんじゃない。本気で、世界中の悲惨さをなくそうと決意するほどには」

乳の話

貧乳好きって、なんか違うよねって話です。

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最近ではあんまり聞きませんが、「貧乳は正義」って言葉がありました。巨乳派と貧乳派の争いは、今でも続いてるんですかね?まあ僕はどっちもそれはそれで好きなんですけど、それぞれに対する「好き」って対等じゃないと思うんですよね。

巨乳と貧乳の対立は安易で、美乳がどうのこうの言い出す勢もいるんですけど、美乳うんぬんって脱いだ後の話ですよね、なので今回はスルーで。

話戻します。

なんていうか、超ありきたりに言うと、巨乳好きなのは本能で、貧乳好きはその本能に対する逆張りでしかないって感じですかね。ぼくなんか、巨乳には自然に目が行っちゃうけど、貧乳には行かない。巨乳と貧乳に対する「好き」の意味合いが違うんですよね。まあ、超個人的な感覚だから、みんながみんながそうとは言えませんけど、巨乳好きが根本にあって、貧乳好きは、そのアンチテーゼみたいな。

Aっていうテーゼが定立されると、同時にnot Aも定立されるように、貧乳好きは、巨乳好きへのアンチテーゼみたいなもんじゃないかと。(「私は巨乳好き」の否定は、「私は巨乳好きではない」なので、それから直ちに「私は貧乳好き」は帰結されないんですけど、あくまでも感覚的な表現です。それに乳はみんな好きなので、多分誤謬ではない。

前提 「人間は巨乳好き」∨「人間は貧乳好き」(←反論は認めない) 「私は人間である」 この前提を正しいものとすれば、not「私は巨乳好き」と「私は貧乳好き」は同値です(テキトーです))

この比喩には無理があるのでやめて、違う表現しますね。

多分巨乳と貧乳って、それ自体が好きというより、それぞれがメタファーなんですよ、多分。

例えば、巨乳は、母性とかそういうもののメタファーで、一方貧乳は、若さのメタファーである。こんな感じすかね。例えばですよ?だから、同じ乳の話をしてるようで、意味してるものが全然違う。ただ、こういう解釈だと、巨乳好きの方が真正、根本的っていう最初の主張が帰結されないんですけどね。

でも、こういう話をいろんな視点で分析すると楽しそうです。

どうでもいい話でした。

「自分語り」の話。

 「カオスに翻弄されて過度の重荷をしょいこまされたとき、たいていの人は、「単純素朴」にあこがれる。自分の人生を、「これが起きた後に、あれが起きた」という物語の糸に通して再生すれば、「おれは家の主人だ」と感じさせてくれる何かが、無意識のうちに生まれてきて、お腹にお日さまを当てたみたいに安心できるというわけだ。  トラウマブームになるずっと前から、たいていの人は、自分との関係において物語作者だった」(『ウィトゲンシュタイン精神分析』)

ぼくは何故か、友人から相談を受けることが多いみたいです。恋愛相談であれ、考え方の相談であれ、結果的に元気になってくれれば、それは嬉しいと思います。無粋な話かもしれないけど、人が何をどのように悩んでいるのか、個人的に興味もあります。

まあ、ぼくは精神科医でもないし、その辺の勉強は全くと言っていいほどしてないです。しかしながら、いろんな人の話を聞いていく中で、気づくことがあります。それは、人は往々にして物語を作りがちで、それが新たな問題を生みがちということです。

「自分語り」という言葉はよく耳にします。聞いてもいない「自分語り」をする人間は、ウザがられるらしいです。個人的には、ぼくはその人に興味があって、その人のことを知りたいと思って会話をしているのだから、もっと「自分語り」をしてくれと思ったりするんですけども。多かれ少なかれ、人は「自分語り」したいですしね。

でも、そういう「自分語り」が、本人を苦しめてしまうことも多いように思う。

「わたしはこういう経験をして、それが原因で、今こういう性格になって、こういう考え方をしてしまう」とか、もっと単純に「わたしは頭の回転が遅い」などなどの、自己言及的な発言を聞くことが結構あります。また、ぼく自身も、そういう発言をすることもあります。でも、ぼくはこういう発言に、何かしらの違和感を感じてしまうし、多分多くの人が感じていると思う。

「わたしは〜です」という表現には、必ず不完全性がつきまとうように思う。なぜなら、歴史が全てを記述することができないように、「わたし」について全てを述べることは不可能だから。だからこそ、物語にして単純にしてしまう。因果関係に基づき、論理的整合性のとれた物語に生きてしまう。フロイトは普遍的原理に基づいて物語を記述できると考えたんじゃないかな。だからこそ、無意識とかトラウマとか、エディプス・コンプレックスといった構造を作り上げたんだと思う。

ぼくはそういった、無意識とかトラウマを全く無意味とは言わない。治療に役立つことがあるのだろうし、それで助かった人もきっといるのだろう。また、トラウマによる精神疾患は、フィジカルな外傷として考えられ、フロイトの時代とはまた異なっている。

人はどうして「自分語り」の物語をするのかな。安心できるというのが、一つの理由かもしれない。安心というのは、それで元気になるとか、前向きになれるとかではなく、カオスに耐えられない人が、物語の単純さに安心するという意味です。ニーチェなら、物語は「力への意志」によってつくられると言うかもしれない(知らんけど)。確かに、その物語を通して、何かを他人に求めるというのはある。

こうしたことを踏まえても、やはり、そういった自己の物語は、カオスな自己の、一つのアスペクトに過ぎないのだと思う。ある絵が、老婆に見えたり、若い女の人に見えるとかあるけど、それと同じで、一つの見え方に過ぎない。一方で、カオスな自分をありのまま捉えることもできないとも思う。この辺はまだわからない。

ただ思うのは、一つのアスペクトに囚われるのは健康ではないとこと。「わたしは〜です」で言及される「わたし」は、〈わたし〉ではない。「わたしはトラウマに支配されている」というアスペクトに囚われると、そこから抜け出すのは困難になるんじゃない?(アドラーなら、人は進んでその物語に囚われるとか言いそう)精神医学の新宮一成の「自己が自己に論及することにつきまとう、尽きせぬ不完全性のめまいの中に、人間の病苦が発する」という発言には、やはり説得力がある。

結局、「わたしは〜です」という表現はあまり好きじゃない。

「「私とは・・・・・・だ」型のセンテンスよりも、「・・・・・・も私だ」型のセンテンスがおすすめで、健康によろしい」(『ウィトゲンシュタイン精神分析』) 

☆参考にしたのは

ジョン・M・ヒューストン『ウィトゲンシュタイン精神分析』土平紀子訳、岩波書店、2004年

の、主に、丘沢静也の解説です。

『限りなく透明に近いブルー』の話。

わたしが大好き(?)な小説の一つに、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』というのがあります。村上龍が好きな人は、わたしの周りにはあまりいないのですが、今回はこの作品についてのお話です。

限りなく透明に近いブルー』は、米軍基地の街で生活する若者たちの、音楽とセックスとドラッグ、暴力に満ちた生活を描く作品です。これらの描写には官能的な要素はほとんどなく、ほとんど、残酷でグロテスクに描写されています。

村上龍の作品の多くにはこのような描写が多く見られ、それが苦手で村上龍を読まないという声もよく聞きます。確かに、それらはときに、その優れた表現技術もあって、読む気が失せるようなときもあります。しかし、非日常的な描写にもかかわらず、そこにわたしはどうしようもないリアリティを感じるのです。

限りなく透明に近いブルー』でのグロテスク描写は、わたしたちの日常に隠されたグロテスクさをわかりやすく表現したものに過ぎないとわたしは感じました。

ほとんどの人の生活には、ヤク漬け乱交パーティも暴力もほとんどありません。しかし、そのようなことを持ち出すまでもなく、わたしたちの日常は十分グロテスクなのです。

わたしは毎日コーヒーを飲むのですが、その充実した時間は、低賃金で働くコーヒー農家の犠牲の上に成り立っているものです。コーヒーだけでなく、日用品の中には、低賃金で働かされている外国人が作っているものが多い。また、わたしたちは、毎日信じられない量のゴミを排出し、交通機関は大量の二酸化炭素を生み出している。成立した恋愛の裏には、敗れさった恋愛がある。平等を謳う人間の口からは、権力への欲求と憎悪の匂いがする。愛の大切さを述べて愛を知らない人間を傷つける。われわれは普段から多くのものを踏み潰し、暗い感情を隠すように綺麗な言葉を吐き散らしている。ここでわたしが言いたいのは、日常のほとんどの事柄には、グロテスクな文脈が隠れているということです。

われわれは普段そのようなグロテスクな文脈を見ようとはしません。見ても自分には関係のないものとして扱う。しかし、それを否定しようとは思いません。わたしは毎日コーヒーを、ときには不味いと言いながら飲むし、紛争地域のニュースをスターバックスで読み、夜はそんなことを忘れてピザハットを注文する。抜け駆けして可愛い女を抱きたいし、洗い物が面倒だから割り箸を使う。グロテスクな文脈をいちいち考えていては、生きていけません。

しかし、そんなグロテスクな面がどうしても気になる人間もいる。人の(ときには自分の)言葉に隠された意図に敏感だったり、コーヒーを飲むときに憂鬱になったり、口だけの平和主義者の言葉に絶望したり。変に想像力があるために、日常の中のグロテスクが目に入ってしまう、ふとしたときに腐ったパイナップルのにおいがして、世界がすべて腐っているように思えるときがある。そういう人もいる。

そんな人は、周りからは普通に生きているように見えても、ひどく疲れるときがあるのだと思うし、毎日何かに傷ついているんだと思う。『限りなく透明に近いブルー』の主人公リュウもそうなんじゃないか。退廃した生活の中である程度楽しんで生きながら、知らず知らずのうちに傷ついてしまう。

そんなリュウが物語の最後に見つけた、限りなく透明に近いブルーのガラス破片はすぐに曇ってしまったが、確かにそれは希望だったのだろう。

 血を縁に残したガラスの破片は夜明けの空気に染まりながら透明に近い。  限りなく透明に近いブルーだ。僕は立ち上がり、自分のアパートに向かって歩きながら、このガラスみたいになりたいと思った。そして自分でこのなだらかな白い起伏を映してみたいと思った。僕自身に映った優しい起伏を他の人々にも見せたいと思った。  空の端が明るく濁り、ガラスの破片はすぐに曇ってしまった。鳥の声が聞こえるともうガラスには何も映っていない。 (村上龍限りなく透明に近いブルー』)

 このグロテスクな世界で、いつか一つのガラスの破片を見つけることができたならいいなと思う。それが何かはわからないし、人それぞれだとも思う。見つけられる頃には、リュウのようにボロボロになっているかもしれない。見つけられても一瞬しか手に残らないのかもしれない。でも探してみようと思う。

色んな意味で少し恥ずかしい記事になりましたが、最後までありがとうございました。 よければ『限りなく透明に近いブルー』を読んでみてください。

新装版 限りなく透明に近いブルー (講談社文庫)

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  • 作者:村上 龍
  • 発売日: 2009/04/15
  • メディア: ペーパーバック

詩の話。

先日、最果タヒの詩の展示会に行きました。

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詩が様々に展示される中、特に面白かったのは、この宙吊りにされた詩の空間です。

この空間では、最果タヒの詩の断片がランダムに目に入ってきます。偶然視界に入った詩たちが、その場限りの詩を作り、視線を移すと新たな詩が生まれる、そんな印象を受けました。

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ふだん私は詩を嗜みません。わかんないので。ただ、最果タヒの詩集だけはほとんど購入しています。

最果タヒの詩集に惹かれる理由はまだわからないので、ここでは語りません。でも、詩がわからないことについて少し考えてみようと思います。

私は詩というものがあまりわからないのですが、よくよく考えてみると、普段から歌詞のついた音楽は聴くんですよね。だから、案外身近なものではあるはずなんです。でも、詩というものに相対したとき、音楽を聴くときより身構えてしまう節がある。多分これがまずい。詩の意味を考えるとき、「この言葉は何を意味しているんだろう」と考えたり、他の言葉に変換しようとしてしまう。それが言葉の意味を考えることだと勘違いしている。

しかし、例えば「こんにちは」という言葉の意味を考えたときに、それを他の言葉で言い換えることに意味はあるのでしょうか。普段何気なく用いているこの言葉を、他の言葉で言い換えて意味を伝えようとしたとして、それは挨拶として機能するのでしょうか。

ここではこれ以上掘り下げませんが、多分「こんにちは」は、何か意味を伝えるというより、何か相手に「動き」(挨拶を仕返したり、会話を始めたり)を与える役割を担っているんですよね。相手に「動き」を与えることこそが、挨拶の意味そのものであるというのが、ざっくりとした私の考えです。

話を戻しますが、詩も多分同じように考えなければならない。詩の意味を解そうとして、他の言葉に言い換えようとしたり、メタファを考えたりすることは全く無意味で、その言葉から受ける「動き」そのものを受け取ること、これが詩の読み方の「「一つ」」ではないでしょうか。

「動き」という言葉を先程から使っていますけど、これは何も物理的で表面的な動きに限定するのではなく、感情が突き動かされることなど、かなり広い意味で用いています。

この「動き」をそのまま受け取ること、それは人それぞれ異なった形をとるでしょうけど、それが詩を楽しむことではないでしょうか。少なくとも、私にとってはそうです。

言霊という言葉がありますが、言霊を受け取る。そんな感じで、詩を楽しめればいいかなと思います。

言葉は私の最も興味のある分野で、もっと語りたいことはあるのですが、今回はここまでにします。ありがとうございました。

差別の話。

最近テレビを見たら森氏の差別発言の話題が多いですね。

私は恥ずかしながらこの手の問題に対しては発言を控えていますし、今回の騒動に対しても何かしら具体的な発言をするつもりはありません。正直この記事を書くのも、知人から攻撃を受けそうで怖いです(断っておきますけど、私はアンチフェミでも、男女平等に反対なわけではありません(何故かよく勘違いされるんですけど))。

しかし、さまざまな媒体での議論(笑)や 討論(笑)、批判(笑)を見る際に思うことがあって、それを少し記事にしてみようかと思いました。

まずいきなり言ってしまうと、「差別感情が誰にでもあることを忘れている方が多いのではないか」ということです。

差別感情に限らず、他人に対する負の感情、嫌悪や軽蔑、侮蔑などは、誰にでもあるでしょう。まずこの点を認めなくてはなりません。これは疑いようのない事実だと思います。これに対して、昨今の通俗的な道徳では、このような感情を持つことそのものを否定することが多いようのではないでしょうか? しかし、このような道徳感には問題があります。

我々は社会で生きる以上、ある程度道徳的な人間である必要があります(ここにも複雑な議論はあると思いますが、ここでは割愛)。そのような社会での負の感情を持つことを禁ずる道徳によって、我々の負の感情はなかったことにされているのではないのでしょうか。負の感情のない人間を演じる中で、自分の中の負の感情をなかったことにしてしまってませんか?

以上の話は少しざっくりしすぎな感はあります。しかし、明らかに差別的な発言を公の場で言ってしまう人間、それを批判しようとしてさらに差別的な発言を繰り返す人間を見ると、自身の差別感情を忘却していると思わざるを得ません。

差別的な発言は批判されなければなりませんし、差別的な制度は撤廃されなければなりません。しかし、差別的な発言をした人間をさも悪人かのように扱い叩き潰すような行為は、相手を悪として対地し、自らの悪をなかったことにする行為に他なりません。我々は、正義と不正義という幼稚な対立に、また差別感情をなくすための議論に終始すべきでなく、自身の差別感情との向き合い方を考えなければなりません。

これ以上具体的な話はしたくないので、ここで切ります。ざっくりしすぎて誤解を招く記事かもしれませんが、ここまで読んでくれてありがとうございました。